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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (六)平田屋町(その3)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 平田屋町内で忘れてならないのは、永井幸兵衛氏で、幡磨屋町の有末清重氏とともに、当時本通会の両壁的存在であった。幸兵衛氏の祖先は、浅野家が紀州から芸州へ国替えの時、長晟(ながあきら)に随って来た御用商人で、中の棚に店をかまえて長浜屋と言ったもので、酒、醬油の縄室、菓子の二文字屋と共に三旧家の一つであった。

 同氏は広島取引所取引員として、投機界五十三年間の歴史を体験した。同氏は明治十四年米屋をやめて紙屋をはじめ、昭和八年全国取引所大会に表彰され、八十歳で業界を引退し昭和十七年八月、八十九歳で亡くなった。長男林太郎氏は興業界に力を尽した人で、四男次郎氏は銀山町に印刷所を経営し、今もって同氏の円満な性格を偲(しの)ぶ広島人がある。

 白神神社の入口にある石標には、広島取引員大手町五丁目の旭爪氏の名前と永井幸兵衛氏の名前が刻まれているが、故旭爪脩一氏はこの石標を親父一人で建てるつもりが、幸兵衛氏に口説き落されて二人で献納したという話をしていた。

 以下、広島本通会の昭和十六年現在の様子を綴(つづ)ってみよう。平田屋町は本通一丁目と言って、北側の商家は東から虎屋の竹林堂、田中メガネ店、久野瀬履物店、巡査派出所、永井紙店、中の棚小路をへだててヒラガキ鞄店、田村洋品店、菊秀刃物店、たむら小間物化粧品店、湯浅寝具店、岸本眼鏡店、キショウ堂メタル帽章帽子洋服店、小川洋服店、内海金物店、巴堂カステラ店、近森帽子店、斎藤帯本店、ここで立町に入る。

 そして福間洋傘帽子ショール店、三谷履物店、世良家具店、田坂文栄堂文具店、タソヤ百貨店、ちから食堂、三和銀行、南側は東から順にヒコーキ堂菓子店、玉田時計店(店の飾窓に十円金貨や五円金貨を並べて人気を集めていた)、筒井糸物度量衡店(紙屋町に移転)、玉井履物店(ここから新川場町、鉄砲屋町の入口)、角の店は牛尾糸物(毛糸店)、ゑりべん半襟服飾店、芸備銀行平田屋町支店、下村時計店(原爆後の時計塔の姿は広島人には忘れられない)、ライオン堂帽子店、勧業証券支店、田島玩具店、池尻雨傘行李荒物店、スミヤ服地店、平田漆器店、安達メリヤス雑貨店、加藤足袋店、ぬのや呉服店、光永呉服店、志んや足袋店、中島屋洋品店、大中田洋反物店、安田銀行支店、次の小路は下中町になるが、以上は原爆前の平田屋町の軒並を綴った次第である。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年3月31日中国新聞セレクト掲載)

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