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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (七)播磨屋町(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 播磨屋町は毛利時代、紀州から湯川播磨守宗有が広島入りをして現今の播磨屋町、研屋町、紙屋町、立町一円を管轄して、この界隈(かいわい)に商店街を現出したもので、彼の播磨の名前が今もって播磨屋町として伝えられたものである。播磨屋町の南通りは八百屋町、北通りは西魚屋町、東通りは立町、西通りは研屋町で、当時の町筋は現今とほとんど同様である。

 この町内に、かつて「広島御坊」があったということは、一般に知られていない(一説には中町にあったともいう)。この「広島御坊」は安芸備後の真宗東派筆頭の寺で、維新後「広島別院」と言われて大手町六丁目のインゲン小路に面した寺である。大手町三丁目の三原屋小路、四丁目のキジヤ小路、五丁目の桝屋小路とともに、大手町通りでは忘れてならない小路である。

 もともと播磨屋町に「御坊」があったということは、本能寺の変で信長が明智光秀に暗殺されたことに始まる。すなわち、京都本願寺第八代蓮如上人は文明三(1471)年比叡山延暦寺のために寺を焼かれて近江の国に逃れて、領主佐々木氏の肝いりで坊舎を建てて、弟子の僧蓮如を残して、寺号を慈敬寺と名づけた。

 後に僧蓮如は自分の子法印大僧都にこの寺をゆずり、かくて五代目を継いだ證智は本願寺門跡教如を守って、紀州、泉州、摂津にわたって放浪をつづけ、最後に近江の国の慈敬寺に帰ろうとしたがこの寺も戦火に焼かれた。

 たまたま天正年間、毛利輝元が広島城をこしらえることを聞き伝えて、毛利氏の計らいで播磨屋町に寺の敷地をもらい、一心寺を創建し、後に円證寺と改名したという。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年4月7日中国新聞セレクト掲載)

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