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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (七)播磨屋町(その1)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 證智は慶長三(1598)年に遷化して、寺を実子に譲った。その後継者は大手町六丁目インゲン小路に明信院を創立して、寺の維持については、京都東本願寺との間にいろいろといきさつがあって正保五(1648)年、東派の門跡の流れをくむ者がこの寺をついだ。それ以来「東本願寺御坊」といわれ、維新後は「大谷派本願寺御坊」といい伝えられている。

 御坊が本通りの播磨屋町にあったというが、寛永年間の城下地図には、裏通りの西魚屋町の一角に真宗円證寺と書いてあり、天明年間の広島地図には大手町六丁目のインゲン小路に面して明信院の名前が書き加えてある。

 メインストリート播磨屋町の表通りに、この御坊があったということはどうやら間違いで、播磨屋町と言ってもこの裏通りの角、西魚屋町や中町に、この御坊が創立されたということは想像される。

 広島の本通りに関する限り、一つとして寺院の姿が見られないというのは、広島開府のみぎり、二宮太郎右衛門や平田屋惣右衛門が城下の地割計画に、苦心のほどをみせていると言いたい。

 明治十六年の「広島案内記」によると、播磨屋町では、薬屋福井成美氏が千金丹、守田の宝丹、喜谷の実母散、松田のヒットルをはじめ五十余種の薬を売りさばいていた。また、南側の金川屋赤松又四郎氏は黄精丸、青新丸、活精丹以下十三種の妙薬を扱った店だった。

 この二つの薬屋ともに、店先には立派な薬の看板を並べていた、薬の製造元から寄贈される、木製金泥彫刻入りの看板が店先にかけられていた。急に大雨が降ってくると、この店先に飾られた看板を、店員が「エンヤ、エンヤ」と店の奥に運んだあわただしい風景が思い出される。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年4月14日中国新聞セレクト掲載)

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