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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (七)播磨屋町(その1)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 明治三十四年の「広島地図」によると、商店名は北側にあった井筒屋、電話番号も百二番の山崎一作商店がある。砂糖商と掛物メリケン粉卸で、同じ北側の十四番地木熊屋木村熊蔵の小間物問屋ならびにかるた絵双紙を商うた店は、後年亀サンの愛称で呼ばれた木村亀吉氏の実家である。

 亀サンは広商の野球選手で、鳴尾大会にも出場し、広島アスレチックスのメンバーで陸上競技にも活躍したが、彼も原爆で倒れたという。

 同町四十二番邸の多山千代造氏の店は南側にあって唐反物卸商、また同じ五十番邸の浜田治兵衛氏は呉服商並に仕立物という商店で、北側の丸山呉服商は有末清次郎氏の店であった。

 なおこの店の前にあった有末の本店は、昭和二年「桃源喫茶店」に改装され、北側の店は丸高百貨店になった。なお、有末商店の清重翁は、平田屋町に永井幸兵衛、播磨屋町に有末清重ありといわれたもので、同氏は呉服商のかたわら、広島での篤志家の一人であった。

 日清、日露両役には出征兵士を見送るために、ほとんど毎日のように同氏は宇品港に出かけたもので、町内の面倒を見る一方では、あらゆる公共事業に力を尽した。

 大正中期、市内の各中学校に出かけて精神訓話をしたのも同氏で、一説には、広島の名物男であったと同氏のことをいい伝えているが、播磨屋町で見かけた清重翁のたちふるまいには思わず頭の下ったもので、同氏は広島人を代表した人であった。比治山の墓地の前を通るたびごとに同氏が書かれた和歌が思い出される。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年4月21日中国新聞セレクト掲載)

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