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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (八)播磨屋町(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 この播磨屋町には、広島の劇場史に忘れられないことがある。それは今のラッキー劇場のあたりに芝居小屋があったことである。

 明治十年十月の広島地図によると、播磨屋町の中央の広場に「シバイ」と印がつけられている。この場所には、明治五年五月、広島最初の小学校開成舎が中島本町から播磨屋町内の広場に移転された。その当時の生徒は数百名もいた。

 明治二十三年には温知小学校を袋町小学校と改名し、二十九年には開成舎は播磨屋町小学校と改名され、さらに四十四年に袋町小学校と改め、大正十一年四月には播磨屋小学校は現在の袋町小学校に高等科を併設した。あの頃の播磨屋小学校の正門は現在のラッキー劇場入口の地点にあったもので、鉄製の三つに開いた門の印象も忘れられない。

 学校が袋町に移転した頃は次から次へとサーカス団がこの学校跡で興行した。ある時猛獣使いを売物にしたあるサーカス団が、豹のオリを外に出して見物の人気を集めていたが、ある日、そのオリに近寄った子供が、豹の手に頭の髪をむしり取られて死んだ話も忘れられない。

 土佐犬の闘犬も度々この広場で興行され、播磨屋町の本通りにアーチ型の看板が取りつけられたのもこの頃だった。今もってアーチ型の看板が昔の名残りを懐しんでいるようである。

 ところで話は、明治十年十月版の地図に戻って、開成舎のあとに「シバイ」とあるのは、次のようなイワレがある。広島の演劇史を調べるには、先ず文久年間に江波と三篠打越にあった中小屋の話がある。坂東秀調や瀬川あやめ、沢村源之助一座の興行は別のところで書くとして、明治四、五年ごろから七、八年にかけて広島だけの定小屋が出来た。

 国泰寺の旧控訴院のあるところにも、京口門筋、今の放送局の近くにあった上流川町の石橋を中心にしたところ、大手町一丁目の西南角の付近にもオソマツな定小屋ができたという。播磨屋町の旧開成舎の跡には明治八年大きな定小屋を造ったというが、このころ維新のどさくさで劇場の整備どころではなく、ときの広島県令千田貞暁氏はこの定小屋の興行を許さなかった。その後、畳屋町の蓮池が埋め立てられてこの播磨屋町の定小屋を移転させた。

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 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年4月28日中国新聞セレクト掲載)

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