×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (八)播磨屋町(その2)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 畳屋町の蓮池が埋め立てられ、移転した定小屋を引受けたのは畳屋町の笹木為助氏で、同氏の姓に因んで「笹置座」と命名した。後に明治三十二年三月二十八日、経営者西本清兵衛氏がこの定小屋を改造して「寿座」と命名したもので、広島最初の大劇場名は「笹置座」であり、播磨屋町の旧開成舎の跡が陽の目を見なかったというワケは以上のイキサツがあるわけである。

 大正七、八年ごろ、この旧播磨屋町小学校の跡には広島ホテルが建てられ、賀茂郡西志和村出身の力士阿里山が阿里山クラブを建てたのもこの頃であった。阿里山は六尺二寸(約188センチ)の上背もあって、最後は幕下拾両まで取った相撲で、筆者の記憶ではあの頃巡業地で人気を集めた角界野球の一塁手であった。

 油揚げの三角型広商の運動場で、広商との一戦にも彼が一塁を守っていた。台ワンと言う投手も六尺(約181センチ)位の長身で、投げ下す剛球を酒好きの花坂が真赤な顔をして捕手を勤めた。例の根岸の角界騒動には、阿里山クラブでの撞球場に備後出身の〓田川やこの花坂が、食客となっていた。

 阿里山夫婦は、共に気軽な温厚な性質で、広島人から可愛いがられた。麻雀クラブを始めたのも彼で「アサスズメ」という名は、広島人を戸惑いさせたもので、東亜同文書院出身の作野合平君の姿もしばしば見られた。昭和三年のFKで「アサスズメ」の手解きを三日間にわたって放送したのも合平君であった。

 道場の角界場には清茂基博士の姿も見られた。阿里山は天神町のすし徳井上力三郎氏の肝入りで、このクラブを設けたというが、間もなく彼は病没したように聞いている。広島ホテルのバーテン高須賀君は慈仙寺鼻に民衆大食堂をはじめた。

 話は再び毛利時代にさかのぼるが、播磨屋町の表通りに店を張ったのに味噌醤油業の樽屋萬三郎がある。また薬屋には天正年中、備前の金川村から広島入りをしてこの町に永住した金川屋九郎右衛門がある。

 維新前この町に書店を開いた井筒屋勝次郎氏は、またの名を未田麗蔵といって、当時広島の三歌人の一人であった。いうなれば商店街の文化人で、皇学に通じた人でもあったという。なお広島ホテルは経営に失敗して間もなく青木眼科病院になったはずである。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年5月12日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ