×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (九)播磨屋町(その3)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 町の南側にあった「桃源」という喫茶店は、昭和二年に室木豊治君(高田郡秋越村の出身)が開業したもので、十六、七年頃まで広島人に馴染(なじ)まれた家族本位の店であった。同君は大正十一年広島商業を卒業したもので中学生時代、武者小路実篤氏に傾倒して、新しき村から発行していた「白樺」の読者でもあった。

 倉田百三氏の「出家とその弟子」を大正十一年五月七日、岡田嘉子や山田隆弥などのいた舞台協会が寿座で上演したのを機会に、作者倉田氏との文学上のファンとなって戯曲「俊寛」についても一見識を持った当時の広島文学青年の一人であった。また広島ゴルフの草分けで、天野進作氏や松坂義正氏、松林博士たちとのグループであった。

 彼がこの喫茶店を始めるについては、下流川町にあった名井屋の向うを張って、本通りに家族本位の店を開いたもので、そのころ西横町の実業社の喫茶店にいた加藤君を招いてこの店のプランをたてたという。外国航路に乗り込んだり、海軍省関係のパン製造の先輩和気氏の肝入りで、その道の面倒をみてもらった加藤氏は、箱根丸で覚えた仕事を、この店で、それまで広島にない腕を振ったという。

 開店前には板囲いが施され、その中央に大きく黒ペンキで「?」と描いて、そのころ鈴蘭燈に輝いた本通りを散歩する広島人の目をみはらせた。一週間後、人出の真盛中を、この板囲いの左に「桃」右に「源」の二字を加え、上にサロン・デ・テイの横文字を加えてこの店の正体を知らせた。後にこの「?」の商標はしばらく市内で行われたが、室木君は「?」型の商才を身につけた才人であった。

 もちろん「桃源」の文字は、武者小路実篤氏の戯曲から借用したものと言うが、不思議なことに、この「桃源」ができる前にはこの家は有末の本家であり、次には三次からきた和田氏の赤菱薬店があったもので、有末氏時代にはこの本店で広島製の印肉を製造して売り出すことになり南画家の稲田素邦氏らが、この印肉の商品名を「桃源」とすることになったというが、その挿話を知らぬ室木君が「桃源」と名を付けたのも不思議である。武者小路氏の作品に傾倒した同氏は朝日に連載された小説「兄弟」には連日泣かされたという多感な青年であった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年5月19日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ