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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十)革屋町(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 革屋町という名の町名は、既に毛利時代の広島城下地図に書き加えられて、承応年間(1652~55年)の地図では革屋某という革細工業を営んだ屋号も見られたという。また、浅野氏の広島入城の際には、紀州から同業の西村六左衛門が革屋町に店を構えたという。また同じ町内には、紀州生れの加藤九郎右衛門が金箔位牌(いはい)細工の店を開いている。

 福島時代の慶長十六年(11年)七月には、同町の北側中央を車屋町へ抜ける小路に高田郡吉田から勝順寺が研屋町の同地に移転して来た。本通り幡磨屋町にあったという御坊は、事実は中町あたりにあったものらしく、本通りに近い寺院としてはこの勝順寺が唯一のものであった。

 革屋町がその名のとおり、革細工専門の商店街であったらしいことは想像出来るが、時勢の推移でこの本通り街から姿を消したのはどうやら維新前のことで、その後大手町通りに馬具一式の店が現れていたのは、革屋町商店街の商店が所を替えての営業であったのかも知れない。

 明治十六年の記録には、幡磨屋町の福寿堂、平田屋町の精霊堂と同じ名菓を商う風月堂が同時に姿を見せている。また酒造業には松浦松次郎商店が銘酒初霞で人気を博していた。また勝順寺小路を抜けた車屋町には建具屋の岩瀬荘三郎商店、綿繰、蚕糸取器械、ポンプなどを取扱った大黒屋伝左衛門こと梶山吉右衛門の名前もみられた。

 また同じ研屋町の圧巻は西洋ペンキを扱った柴田惣兵衛商店があった。昔の広島の芳しくない言葉に「頭をパッチリ播磨屋町」というのがあったが、その向うを張ったものに「ソーベー」という語がある。この「ソーベー」は革屋町横通りの研屋町に店を構えた柴田惣兵衛氏をうたったもので、サカンにこの言葉が使われたのは明治六、七年頃で、専ら口の悪い車夫仲間で、符チョウ言葉として使ったものらしい。

 当時人力車を新調すれば必ず、この柴田惣兵衛氏の店に持ち込んでペンキを塗られたものである。ところが、広島唯一の人力車塗物業だけに、店は多忙を極めたものらしく、約束の期日に塗り上りが出来ないためにそれを嘆いた車夫仲間は持ち前の口の悪さで約束守らぬウップンを「ソーベー」といったもので、この言葉が約束を違えるという意味に使われて広島の流行言葉となったというワケである。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年6月9日中国新聞セレクト掲載)

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