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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十)革屋町(その1)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 革屋町に近い研屋町の柴田惣兵衛氏の店には、かなりの人力車が持ち込まれて、店もなかなかの繁昌(はんじょう)を見せたという。明治六、七年ごろの昔話でこの挿話をここに入れたのは当時の広島の風潮の一齣(ひとこま)を綴(つづ)ったほかに他意ないことを当時の惣兵衛氏は了解して欲しいと思う。柴惣商店の繁昌が、「ソーベー」という広島での新しい言葉を生み出したわけで、広島史に残る一ページになっていることを書き添えた次第である。

 また研屋町に住んでいた永田惣兵衛家のことも忘れてならない。同氏は旧商家の出で、茶道をも修め、しばしば藩主に招かれてその道の指南をした。現在、宮島宝物館に保管されている同家が納めた絵馬は芦雪「山姥図」や寛永十二(1635)年平戸藩士山県二之助が奉納した司馬江漢の「木更津浦之図」とともに有名なもので、円山応挙がものした猛虎の図で宝物館中の逸品である。奉納は明治六年五月吉日とあるが、額ブチには安永丙申之秋広島永田惣兵衛の文字が達筆で書かれてある。

 永田家の先代清四郎氏は、広島茶道の表流を継いで今日に至っているというが、元和以来の上田宗箇の伝統のうちには、広島で茶歌舞伎を廃止して闘茶を採用したあたり、広島茶道の一端にも触れたいが、谷口勘兵衛、吉田屋彦三郎、野上屋南枝、原田雲燈ら一連の茶人のうちに、永田惣兵衛氏があったことを書き加えて置こう。

 明治三十四年の広島地図には南側の中頃に有末清治郎氏の山陽堂がある。この店では「広島まんじゅう」を売り出して、本川橋の「本川まんじゅう」の向うを張って人気のあったまんじゅうであった。同じ南側の四十七番邸には鴨谷貞蔵氏の加茂屋、小間物かるた絵双紙の店があった。また四十番邸には木本文助氏のタバコ卸商があって、一般に木文で通っていた。

 北側の金物商加古屋は木岡元太郎氏が当主であった。また、北側の二十八番邸には元祖山繭屋があって、広島名物の山繭織製造卸売の店を張っていた。同じ北側の十一番邸には沖野屋があって山繭織を扱っていた。いままでこそ山繭織を言っても一向判(わか)らないが、当時はなかなか高価な地元作品の織物であった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年6月16日中国新聞セレクト掲載)

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