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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十一)革屋町(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 山繭織は広島の特産物の一つで、享保年間(1716~36年)安佐郡鈴張村で製作されたのが最初である。はじめは山繭の糸を手でほどいて、つむぎに織った手工業であった。それをつむぎ方に工夫が加えられて、縦への糸を木綿糸にして、それに横糸をからませた、いわゆる横紬を織り出したもので、明治十九年四月に可部町の山繭織商藤原幾平氏が革屋町に店を開いたのが最初で、後に三十四年の記録には、同町の小川光太郎氏が元祖山繭屋の屋号をもらって開業した。もっとも三十四年には藤原幾平氏は大手町一丁目に店を移転していた。

 山繭織は需要も明治末期までで、大正年間には黄緑色の繭を網袋に入れた店もいつとはなしに姿を消してしまった。革屋町の南側にあったヘビの目印の薬屋森本為八氏は日清戦役以来、宇品に入港した御用船を消毒する消毒薬を軍におさめて大成功したのである。引退後、旧広島一中の運動場裏に豪華な邸宅を建てたもので、前に書いた森二泉氏は、この家を中心に広島の文化運動を起したのである。

 また、革屋町と播磨屋町の中間にあった袋町通りには、広島私学の恩人嶋末元氏が住んでいた。同氏は明治二十四年九月、広島に明道中学を創立して、二線入りの帽子をかぶった学生姿は、当時の女性の憧れでもあったという。学校も小町、田中町、新川場町、南竹屋町を経て、明治三十三年御幸橋の北、南竹屋新開に敷地一万二千坪を確保して、広島中学と相対抗したもので、老齢の広島人にはいまもって、明道中学の卒業生が多い。

 ところが、いろいろの事情で大正十四年四月に学園を閉鎖したが、校舎の近くには大きなキリの木が植えられ、運動場には紫色のフジの棚があって、立派な学校風景を見せていた。一年一度の大運動会には、サーカスそこのけの競技が行われて、当時の彼女たちを喜ばせたもので、校長の嶋末元氏も、廃校の年の十二月十七日に亡くなり、後に比治山の陸軍墓地下の松林のなかに、同氏の胸像が建てられた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年6月23日中国新聞セレクト掲載)

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