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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十一)革屋町(その2)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 革屋町の表通りには、いろいろな異変があった。

 大正元年ごろ、北側には東から薬屋があって、後には当時の広島スポーツ選手のたまり場となった吉田豊吉氏の育英堂があった。

 同氏は本通りの東横町に長年書店を開いていた友田書店、吉田藤助氏の実弟で、隣は洋品雑貨の東京堂別ぴん店、加藤銀行、桑原釣具店、中利商店、吉田電気店、勝順寺小路を越して芸備銀行支店、本通界隈(かいわい)に人気のあった桐山メリヤス商店、隣は杉岡絵ハガキ店で、広島名所の風景ハガキはもとより、八枚つづきの赤穂義士の討入りや、関ケ原合戦の絵ハガキが人気を呼んでいた。

 映画やレビューのブロマイドのなかった時代で、東京の名妓萬龍や古いところでは洗髪のお妻などの写真も陳列されて、市松模様の流行した折柄、桃割姿に紅いショールをかけた、広島娘の姿も忘れられない。

 そして隣は吉見紙屋、奥本金物店、津山漆器具の卸問屋、また、南側の角は三井銀行の前では川政商店、陶器店、奥本金物店、岡野進物店、多山恒次郎氏の宅、秦武商店、明治堂菓子屋で、この店は三階建で一時は二階に社交ダンスのレッスン場もあり、三階には各種の会合の会場に当てられ、広島十一人座は石井漠以来の盟友沢モリノや、黒木憲三などを集めて茶話会をやり、公演後は必ずこの三階で座談会などを行った。また、一時は川口屋もこの明治堂の店に同居された時代もあったという。

 隣の家は鴨谷喜兵衛氏の弟がおもちゃ店を出しており、太物業の藤井金兵衛氏、この地点は後に邦文タイプライター、金庫商の熊平源蔵氏が天神町から移転して、隣は森本で地図を取揃(とりそろ)えた店、山村宮島細工商店、木谷茶店で、隣は革屋町の電車停留所であった。

 この町内で忘れてならない人に多山恒次郎氏がある。同氏は播磨屋町の屋号「たばこ屋」多山本家に生まれて、大正六年一月、革屋町に一家を創立したもので、松浦泰次郎氏の東邦ゴム株式会社に籍を置いたのが、広島実業界入りの最初であった。後に松浦氏と共に広島瓦斯電軌の重役になった一方、長年革屋町の総代の役を引き受けて同町の繁栄に力を尽した。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年6月30日中国新聞セレクト掲載)

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