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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十二)東横町(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 毛利輝元開府のときに、二宮太郎左衛門と平田屋惣右衛門の両名が、その地割をしたが、まず太田川の流れの方向を南北にして、城下の縦の面を描き出したという。

 自然、城下の東西の面を横といって、この街筋が横町といわれ、東にあった町は立町といわれ、広島では珍しく道路の方向に因(ちな)んだ町名であった。

 東横町は、大手町筋を限界にして、西は細工町までを西横町といったもので、本通り会の新名称では、東横町は本通り四丁目、西横町は本通り五丁目といわれている。

 輝元の開府や福島時代、浅野氏が紀州から入城したあたりの横町には、これといった記録はない。話はもっぱら明治時代になるが、この町で忘れられないのは、北側の中央の地点にあった横町勧商場と演芸館、それに朝日クラブである。

 横町勧商場は友田書店、鴨谷喜兵衛商店、丸一呉服店隣りの小路にできたもので、明治四十一年六月の創立、店の数が二十一戸で広島で最初にできた勧商場であった。

 勧商場のつき当りには広島別院の墓地と説教所があり、真宗の紋所を入れた二つの大ぢょうちんが並べてあった。西の方へは西警察署前、東は紙屋町筋にぬける小路となっていたもので、朝日クラブは二階建の洋館で、下には撞球台四台をすえてあった。

 そして大時代の石製階段をのぼると、畳八十枚も敷ける講堂で、筆者たちの記憶では、そのころ全国的に風靡(ふうび)したカルタ大会が行われていた。それも全国かるた大会という名の会で、好敵手神戸の選手を向うに回して堂々と広島の選手が全国大会に優勝したこともある。

 このかるた大会の人気は男性側よりも女性側にあったもので、紅葉山人作の金色夜叉のお宮以来、このかるた大会に関する限り広島女性の熱情はなかなか大したもので、大会の帰りには本通りを学生の半マントに身体を埋めた彼女たちのしぐさには、いいようのない明治調がうかがえた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年7月14日中国新聞セレクト掲載)

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