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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十二)東横町(その1)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 時まさに大正の中期のころで、東横町の朝日クラブで開かれた全国かるた大会は、後には二葉山の大観楼や、鉄砲屋町の山金旅館が会場にあてられたが、そのころのかるた会の思い出に、次のようなものがある。

 当時の広島のかるた界の筆頭は村雨会で、同会の銚子選手は、神戸代表小波会の炭山選手と数年にわたって、決勝戦に顔を合わせたのも、今もってかるたファンには思い出話となっている。

 全国かるた大会は、佐伯卓造氏が経営した「大平楽社」の主催で行われたもので、大会前には市内の風呂屋の二階を借りて、猛練習をした。優秀な銚子選手たちは、広島から神戸、京都の大会にも遠征して、数回も全国優勝をなし遂げた猛者であった。

 また、当時のかるた選手のうちには、芸備日日新聞社の法安雅次記者や仏円氏、それに石本秀一氏の名前も見られたと言う。

 ここで再び、演芸館の思い出話をしよう。この小屋は、せいぜい六百名を収容した二階建の寄席で、明治四十三年ごろに出来あがった。当時、広島の寄席では、専ら浪花節が全盛時代で、この寄席には東京での真打の芸人が、次から次へとお目見得した。

 一世を風靡(ふうび)した落語家の紋弥や橘の円がたびたび広島人の前にお目通りをしたもので、筆者の知っているのは大正二年の夏、ヨーロッパやアメリカを洋行して帰った松旭齊天一の一座が現れたのを覚えている。

 さすがに若かりしころの天勝が一行の花形で、後に八丁堀に現れた有田洋行の糸子の比ではなかった。すでに女盛りの天勝の出し物は滝の白糸の流れをくむ日本古典の水芸で、娘義太夫同様、蝶髷姿に水色のふさかんざしを差し、かみしもは金糸銀糸を縫い込んだ立流なもので、舞台一面に噴水の立ちあがる中にえんぜんたる彼女の艶姿は今でも目の前に現れてくるようであった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年7月21日中国新聞セレクト掲載)

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