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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十四)西横町(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 横町は大手町通りで東西二つに分けられていた。日清戦役後は凱旋(がいせん)通りともいわれた。広島城開府以来の表通りで、毛利氏、福島氏時代にはこれといった事件もなかった。ところが元和五(1619)年八月八日、浅野長晟が長子岩松を伴って入城した際に次のような事件があった。

 新城主長晟は八月四日、船に乗って和歌山を出発し、六日には備後鞆の津に入港した。そして重ねて船旅をつづけて八日広島に上陸して、白神一丁目から四十二万石の威勢を見せてその日の夕刻、城主の乗物が南大御門を入った。

 間もなく当時三歳の岩松君の輿が一丁目近くに差しかかると浪人態の者が十数名、抜刀のままで行列の者に斬りかかった。行列中にあった岡田治部右衛門は、大声で「無礼者ッ」と怒鳴りながら彼らと斬り結んだ。治部右衛門に一刀浴びせかけた彼らは行列のどさくさにまぎれて逃走した。治部右衛門は思いがけない深手でその晩に亡くなったという。

 浪人態の者は福島氏の遺臣であったとか、大阪落城後の浪人の仕業とも言われている。浅野長晟公広島入城の犠牲者となった岡田治部右衛門は、藩主から丁重な扱いをうけたことはもちろんのことである。

 例によって「広島案内記」からの抜き書きであるが、東横町の角には芦雪の下絵「子育山姥」があったという大杉屋があった。後にこの店が洋産物、和洋酒、西洋食料商井原青陽堂となって、昭和十年ごろまで営業を続けた。この店の若い主人井原陸雄氏は当時、大阪、東京方面から流行のネクタイや帽子などを仕入れて、若い銀行員たちからの人気を集めた。

 井原さんの妹は下中町の医師会館でソプラノ独唱会を開いたこともあり、一時は若い独唱ファンから将来を嘱望されていたが、のちに浅草の松竹座で市川小太夫一座のメンバーとなって、主題歌専門の歌手として自活をつづけていたが、その後の話は知らない。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年8月18日中国新聞セレクト掲載)

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