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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十四)西横町(その1)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 商工倶楽部(くらぶ)という名の集散場は明治十五年三月に創立された中島集散場に次いで広島では二番目の集散場であった。この商工倶楽部は鳥屋町入口あたりにあったもので、後に長谷川東西堂のあった地点が倶楽部の入口であった。

 この暗い細い一本道を突き抜けると、小さな寄席があった(寄席の名前は忘れられている)。西には細工町へ抜ける道と、北側は猿楽町へ抜ける小路、そして東側大手町一丁目へ抜ける小路と、四つの小路に囲まれた集散場が商工倶楽部であった。

 店の数は三十五戸もあって、明治三十年ごろ広島で最初に正札をつけて商売を始めたのもこの商工倶楽部で、この正札の信用が市民の人気を博したという。寄席の前には易者の店があり、一丁目へ抜ける路には四軒の靴屋がならんで、出口のある店先には、二〇三高地という型の束髪をした木製の彫刻が立てかけてあった。

 いかにも明治時代調そのままを彫刻したもので、ハイカラ娘さんが袴(はかま)を着けていたのも、いうならば商工倶楽部の一名物であった。三十五戸の商店は、その後寂れるがままに寂れて、大正末期にはその姿を消したようである。

 物産陳列館が明治十一年十一月下中町に建てられ、広島県下の物産に限らず外国の産物も陳列して、毎日曜日に一般公衆に観覧を許したが、明治十二年四月に集散場という名に改称してから間もなく明治十三年三月に廃止された。

 その後、明治四十二年七月に東横町勧商場の場内、すなわち定小屋を中心に資本金五万円の株式組織で広島商品陳列場を開設したが、営業不振で大正二年末に解散した。間もなく広島県が乗り出して、大正三年一月、元安川畔に広島県物産陳列館の工事をはじめたもので、物産陳列館が明治四十二年からこの一角で六年間の準備をすすめていたことは、一般に知られていないことである。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年9月1日中国新聞セレクト掲載)

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