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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十五)西横町(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 西横町の南側には、西から元安橋の左に入った小路に釘屋小路があった。宝暦九(1759)年の町内地図に、この釘屋小路が見られる。

 福島氏時代、関白豊臣秀次の家来と言われた矢野九郎右衛門が天正十九(1591)年、広島城下に流浪していたが、塚本町に居を構えて釘類を商って釘屋と言った。その二代目吉右衛門がこの小路に入って釘屋小路と言われたもので、原爆前まで広島郵便局前にあって、有田ドラッグの作り物が並べてあった。この小路は石畳で道が造ってあった番船の発着場でもあった。

 それが同じ南側で勉強堂や木定の角を鳥屋町に入る小路は、寛永年間の広島城下絵図に豆腐屋町と書かれてある。その後、万治三(1660)年の文書には鳥屋町と書きかえられてあるが、町年寄鳥屋八右衛門に因んでいるのは既に綴(つづ)ったのでご承知と思う。この鳥屋町で、明治中期から市民に馴染(なじ)まれたものに「淀川ずし」がある。

 このすしは明治中期ころから広島名物になったもので、当時の主人は吉野氏だった。一枚を六個に切った箱すしで、酢味が強く、病人から喜ばれた。

 店のガラス板に、淀の川瀬の水車を表象した色彩入りの模様も忘れられない。淀川すしのグにはほとんど小鯛が使われて、吸物にはその小鯛のアラが使われた。すしと吸物のコンビが淀川すしファンには喜ばれたという。

 淀川すしと並んだ溝口旅館のことも、本通りと切り離せない話である。この溝口旅館は、虎屋旅館の前身で、溝口お柳さんのことが忘れられない。

 お柳さんは新川場町市畑家から株屋の溝口善吉氏に嫁入りしたが、後に善吉氏と別れて鳥屋町に溝口旅館を開業した。市畑家は鉄砲鍛冶(かじ)の流れを汲(く)む家で、後に鉄工所を経営したが、当時の市畑孝次郎氏は東洋音楽学校でチェロを専攻した広島音楽人としての草分けであった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年9月8日中国新聞セレクト掲載)

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