×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十五)西横町(その2)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 以下は専ら北清事変当時の溝口旅館のお柳さんの話である。事変の進展につれて似島に陸軍病院を建設したり、比治山に陸軍墓地をつくるに当たって陸軍と軍医部との間にいろいろと軋轢(あつれき)があったらしい。軍医部から広島に来る外国人部隊、とくに赤十字関係の要員を引きうけたのが溝口旅館の女主人お柳さんであった。

 現地から送還される患者のために、溝口旅館は外国人本位の部屋に改装された。そして患者のために、神戸から肉類や新鮮な野菜などを軍用列車で広島に運ばせたと言う。洋食らしいものがなかった当時の広島では、崇徳教社の隣にあった広島元祖の内富洋食店から溝口旅館に洋食を運んだという。

 溝口旅館は、さらに室内を改造して、ダンス場まで出来あがったというが、軍医部からこの溝口旅館へ搬送した患者は、ほとんどフランス人と言われた。かつての大手町界隈(かいわい)人の話によると、この溝口旅館のほかに、四丁目あたりの旅館にも赤十字関係のフランス人が泊まっていたということを聞かされている。

 ところが、お柳さんの負けん気性から溝口旅館が見違えるばかりの改装をしたというのに、軍と軍医部はトラブル続きで、軍が一向に費用を支払わなかったために溝口旅館も経営難に陥って、お柳さんは三十円の金を持って娘一人を連れて上京したという。

 彼女は、当時有名な女水芸人を頼って(この女水芸人がだれであったかは、筆者へこの話をしてくれた人の記憶にはなかった)、身の振り方を相談した。すると、その女水芸人は「自分の弟が旅館をやっていますが、どうにも営業がうまくいかないので、ここのところは一切を貴方にお任せするから、思う存分にやってもらいたい」といわれるままに、お柳さんはこの旅館の運営を引き受けた。

 間もなくこの旅館は、お柳さんの腕がものをいって、女水芸人の期待に応えて復活したという。その後、お柳さんは山口県のあるゴム会社の女社長となって会社の経営をやって、六十歳のときに広島に帰ってきた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年9月15日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ