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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十六)西横町(その3)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 お柳さんの挿話は明治三十五、六年ころの話がほとんどで、その一つに次のような話がある。もちろんこの話は、彼女自身から聞いたという人から、筆者が聞いたものである。

 お柳さんはそのころ上海にいたという大陸浪人の手引きで、内地で日本の古い村田銃をたくさん買い集めて上海に渡ったという。その送付方法などについては判然していないが、彼女は上海での取引に成功してばく大な金額を受け取ったという。ところが、この金に目をつけたある日本人が、この金を盗むためにお柳さんのあとをつけネラッたという。

 そこで彼女は、上海発の汽車に乗って南京まで逃げのびたが、相も変らず怪日本人につけネラわれたので、気丈な彼女は揚子江を渡って浦口から汽車に乗り、徐州、済南、天津を経て北京に入ったが、途中言葉が通ぜぬまま苦力の荷車に交って、食うや食わずの旅をしたという。例の怪日本人の眼を逃れて北京に着いた時には、命がけで日本人の商店に飛び込んで、間もなく広島に帰って来たという女傑ぶりであった。

 彼女が村田銃を上海に持ち出したいきさつや、その取引先のことなどについては、いまもって判然としていないが、当時の広島人が女傑のお柳さんとして敬称を贈ったものである。

 鳥屋町の溝口旅館は、明治二十七、八年戦役中、溝口善吉氏の名前が引きつがれて鉄道船舶輸送委員その他が宿泊して、溝口旅館の名を残している。虎屋旅館となったのは、二十七、八年戦役後のことであったかもしれない。

 お柳さんは、六十一歳の時、宇品町に十五畳敷の座敷を建てて、自ら書画の筆をとって老後を楽しんだが、生れつきの気性で他人が困っていた時には、高利貸からも金を借りて、これらの人たちに恵んでやったという。

 お柳さんは禅道にも通じて、永平寺の管長日置黙仙師の弟子であり、生来の世話好きで岡山孤児院の面倒も見たという。いつごろに亡くなったか筆者は知らないが、広島で女傑といわれたのは、彼女一人であったと思う。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年9月22日中国新聞セレクト掲載)

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