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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十六)西横町(その3)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 お柳さんの生家新川場町の市畑家には、旧藩時代に宮島大鳥居の扁額を彫刻した波木井昇斎が居候していたという話は有名である。波木井昇斎は、歴代身延山の豪士であった。彼は四国と厳島での旅を終って、広島に遊んだのは安政三(1856)年十二月十六日であった。

 当時、広島の雅人と言われた野村正清、煙草屋清左衛門、山県屋右衛門たちと交遊を結び、和歌、茶道を娯しむ一方、生来の彫刻の妙技が認められて、当時の浅野藩主に召し出されて、まず竹細工の硯(すずり)箱に七賢人を彫って面目を施したと言われる。

 一説には、彼の妙技はそのまま宮島大鳥居の扁額にのみを入れたともいわれる。彼のために宮島で顕彰会が開かれたというが、この大扁額の金刻は広島人の鈴木竹斎がやったともいわれている。宮島杓子の考案者ともいわれる僧誓真とともに宮島の人には忘れてならない人である。

 波木井昇斎は、宮島盆にあの大鳥居のある風景のデザインを考案したといわれ、後の方谷などの一刀彫とは違った、昇斎独特の精密彫の作品が盆二十枚以上も残されていたという。

 安政三年十二月、彼が藩主に可愛いがられ、胡町年寄煙草屋清右衛門の親類として、町奉行への届出には大手町三丁目熊屋喜兵衛方懸出しとなっているが、廃藩後には生活苦に遭って前記の市畑家に居候となったと言われ、後に竹原の旧家中村家にも世話になったという。

 再び伊予を回って行方不明になったという話を先ごろ南画家稲田素邦氏から聞いているが、その後、筆者が調べているうちに、波木井昇斎は広島時代にかなりの作品を残しているとも書いてあった。文久三(1863)年七月朔日、広島で亡くなり、墓は尾長村にあり、謚名(おくりな)は「鷲峰院昇斎田謙居士」となって、行年五十六歳と書かれている。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年9月29日中国新聞セレクト掲載)

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