×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十七)細工町㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 車屋町から豆腐屋町で書いた細工町だが、本通り会につながる町として一応書き綴(つづ)ってみよう。

 本通り五丁目の中に組み入れられているのは西横町と細工町の一部である。昭和十六年のメモには、広島郵便局の隣は正札屋婦人子供服会、明治堂菓子喫茶支店、南側は豆腐屋町入口角にあった桝本洋服店、おきなパン店、一軒不明で野内紙店、木村時計店、更科生そば本店、隣は元安橋につながるという、本通り会としては猫の額ほどの地点であった。

 明治十六年十月出版の「広島案内記」によると、そのかみに細工師ばかりが住んでいたことから、名付けられた町名。細工町の秦伊三郎氏は汽船荷扱業を行い、鳥屋町には旅館の木原屋渋谷嘉助氏の名も見られた。広島第一の高層建物五階楼がそびえ、かしわ、牛肉、なべ焼と一応、食道楽の文明開化を誇った。同じ軒並みにあった米田良平氏の四階建の大楼があったということも、忘れてならない。

 同じ町内でタバコを扱っていた三宅嘉兵衛氏は、両替えを兼ねた人で、面白いのは郵便本局が平田屋町から細工町に移った時、仙丹本舗という旗印を出して薬の兼業を行ったことだった。郵便局という本業が売薬のアルバイトをやっていたというのは、そのころらしい天下一品の風景であったらしい。

 明治三十年ごろの細工町本通りには、元安橋側にあった呉服業やませこと天野清七氏の店も、広島人には長年馴染(なじ)まれた。八番邸の本条商店は小間物並び美術、貴婦人用品などを扱った店として三十四年の広島地図に記録が残っている。

 この町内には、慶長三(1598)年に僧一円が開基した西向寺と、慶長十(1605)年に創建された西蓮寺(御不動さん)がある。西の本覚寺の妙見さんまつり、東の円隆寺のとうかさんに次ぐ広島夏祭りのはしりといわれるのはこの御不動さんであった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年10月13日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ