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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十七)細工町㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 本通りには平田屋橋のほかに、中島本町へ渡る元安橋がある。長さ二十八間(約51メートル)、幅四間(約7メートル)、広島きっての名橋で、昔は毛利元就の八男元康に因(ちな)んで名付けられた橋といい伝えられる。この細工町から旧城内からの通りを元康通りとも言われて、承応ごろの広島城下地図には「元康橋」と書いてある。この「康」が「安」と改められたのは承応、享保のころだと言い伝えられている。

 元安橋は、中島本町の集散場が出来てからのもので、「広島の盛り場」を語るには忘れてならない橋である。終戦後、八月六日の原爆の日を中心に、元安川に数隻の船をつなぎ合せて、その上に舞台をしつらえて、合唱団や管弦楽団の演奏をする「川祭」を行なっている。

 広島の古老の話によると、この元安川の川祭は、すでに大正二、三年ごろの夏の夜に、一そうの船に一台のピアノをすえつけ、これを取り囲んでギターやマンドリンなどを演奏してこの元安川を流したという。この音楽船の行事は、大正七、八年ごろまでも行われたという。

 細工町角には、油絵愛好者として知られた医師黒川節司氏や、広島産業界の先達者であった高坂万兵衛氏のあったことは既に書いたが、本稿では清茂基氏のことを書き加えよう。

 同氏が広島駆黴院長として赴任したのは明治四十二年の二月で、明治四十五年三月より細工町に自宅開業をした。同氏が今もって広島の野球ファンから慕われているのは、広島市観音町のグランドの面倒を見たからである。

 観音町グランドは、市営にするとかしないとか、いろいろなウヨ曲折があったが、結局、清氏は広島市民の体育奨励の立場からこの創立を独りで引受けることになった。広島体育協会を設立して自分で会長となり、私費を投げ出して広島最初のスタンドのある野球場を市民に提供した。

 野球好きであったが、相撲もかなりの通で、東京相撲協会から木戸御免の特典を受け、広島で相撲興行があるたびごとに各関取達が同氏の宅へ押しかけたもので、前にも書いた阿里山も引退後、播磨屋町で清茂基氏の肝いりで面倒を見てもらった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年10月20日中国新聞セレクト掲載)

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