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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十八)相生橋界隈(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 相生橋という名の橋は割合に昔から日本の各地に見られた橋であるが、広島の相生橋は割に新しい相生橋で、広島の粋人がまってましたとばかりに、名をつけた橋のようである。これで広島もいわゆる粋人の仲間に入れましたワイとばかりに、名が出来上ったような気がしてならない。

 明治十一年七月十四日にお目見得したもので、原爆にもめげず今もって広島人に親しまれている万代橋、別の名を県庁橋と言われた橋と同様、広島人には心温まる橋の名である。

 明治十年二月、相生橋の恩恵をうける猿楽町在住の岩崎永助、桐原威平、桑原専之助、山県増太郎、久保儀兵衛、竹内清四郎、今村藤蔵、村尾徳次郎、勝田孫三郎、木村市郎右衛門、米田庄七の十一名は、この橋を架けるために広島県当局に願い出ていたが、その年の四月十三日付で相生橋を架けてもよいという許可を得た。

 そこで前記の十一名は各方面への資金集めなどに奔走して慈仙寺鼻に埋立工事などを行い明治十一年七月十四日に相生橋を落成開通させたが、記録によると元安川に架けられた橋は長さ三十九間一分(約71メートル)、幅は二間八分(約4メートル)と言われ、本川に架けられたものは長さ四十六間六分(約84メートル)、幅二間八分(約4メートル)であった。

 工事費を弁償するために、通行の人馬車両などから橋の渡賃を徴収したが、明治二十七年十二月三十一日を限りに、翌日から広島市の管理になったという。開通十七年目に猿楽町在住の民間人の手を離れて公共の手に移されたワケで、当時の界隈(かいわい)人としては感ガイ無量のものであった。そこに大きく成長しようとするヒロシマの姿に、涙を流して喜んだことであろう。

 明治十二、三年頃に描かれた相生橋風景をみると、猿楽町側の橋と鍛冶屋町側の橋は、それぞれに同じ木橋で、ランカンももちろん木製で斜め十字型に組み合わせてある。東と西の両橋を結んだ小広場には渡橋銭を受取るたまりがあって、「相生橋壱人渡り札」を発行して、通行人に手交したものらしい。誰が描いたものか、はるかに寺町の仏護寺の大屋根が見られるのも懐かしく、舟が大きな帆を張って上流に漫歩している風景も、水の豊かな、そして美しい太田川でなくては見られないものであった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年10月27日中国新聞セレクト掲載)

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