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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十八)相生橋界隈(その1)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 相生橋をこしらえるために、特に慈仙寺鼻の一角から、かなりの広さにこのあたりが埋め立てられたことは、一般にはよく知られていない。明治十年十月、堀川町の荒木豊次郎が発行した「明治十年広島市街之図、科部市助著広島細見縮図」には、まだ「相生橋」の印はない。

 明治時代のことは知らないが、筆者の大正中期の記憶には、東と西の橋が交錯した当たりに福亀という二階建の料亭があり、元安川に添うた南側から相生館という旅館、隣は料亭がならんで、右から「ときわ」「水月」「福亀」「吉川」、そして阿戸医院を置いて「菊亭」の順で慈仙寺鼻特有の料亭風景が並んでいた。

 菊亭から一軒置いて、その頃はやりのカフェー、それも大カフェー民衆食堂がボリュウムのあった二階建でデビューした。夏時分には色つきの豆電球もフンダンにつりさげて、民衆食堂という大看板を屋上に備えて、純白のユニホームをつけた、いわゆる少年ボーイを入口にたむろさせるという新商法が、一躍広島カフェー界の人気を集めたという。

 主人は高須賀茂氏で、でっぷりと肥(ふと)った彼が当時流行のショウト・カットの頭をしていたのも、そのころとしては珍しいものであった。同氏は播磨屋町の広島ホテル時代、同ホテルのカフェー部のマネージャーとして腕をふるったもので、間もなく独立して慈仙寺鼻に民衆食堂を経営したものである。バーテンのコツを知っていた同氏としては、客をそらさないという立派な手腕があった。後に同氏は飲食店組合を背景に商工会議所の議員になったが、昭和初期急病で亡くなったと聞いている。

 大看板に勘亭流の文字で書いた民衆食堂という名も忘れられないが、この食堂にコーリン・ムーアそっくりの女性がいて人気を集めていた。民衆食堂はその頃のヒロシマに突如として出現した社交場であったが、経営者高須賀茂氏が商工会議所の議員になってから、益々(ますます)社交場民衆食堂の名を高めたことも、あの頃を知っている広島人には懐かしい思い出であった。街のオアシスという宣伝をしたのもこの食堂が最初ではなかったかと思う。食堂の隣にあった熊谷歯科医院は、この界隈(かいわい)では古い歯の先生であった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年11月3日中国新聞セレクト掲載)

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