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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十九)相生橋界隈(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 慈仙寺鼻の本川側の家には、いろいろあった。この界隈(かいわい)に詳しいという人たちの話を取りまとめると次のようになる。

 まず北側から南へ小泉小児科医院、その隣りが旅館で、この旅館の前、即(すなわ)ち元安川側はある料理屋だった。その二階は、いつも雨戸が閉められていたことから、不気味さが漂っていた。その二階の部屋には、心中をした若い男女の血が畳ににじんでいたといわれた。この開かずの雨戸は、いろいろと噂を生んで、長い間慈仙寺鼻の怪談として言われたものであるが、その真相は誰も知らなかったらしい。

 近くの家には炭屋の武田さんがおり、隣りには人力車帳場があって、その隣りの角の家は図案専門がんす社の看板を掲げた石国文吾君が住んでいた。

 また、がんす社の裏、本川端にあった高木弁護士の隣りには井口骨董(こっとう)屋があった。この店の主人は界隈から奇人扱いされた老人で、いつもチャンチャンコを着ていた。そして外出する時には、何でも拾って来るという習性があった。外出ごとに拾い集めて来た紙ギレ、木ギレ、石炭ギレの三種を、それぞれに分類して家の中に積み重ねていた。

 この老人は、食事をとる時には家の畳では食べず、必ず家の出入口に腰を下ろして食事をした。そしてめしは丼一パイに限られていたという。街を歩いて紙ギレなどを集めるのは乞食根性でやっているのではないといつもいっていた。

 井口老人は自分がかわいがっているような骨董物の中に体を埋めて寝ていたと言う。そして商売物の骨董物を次から次へと持ち出して金に換え、これで米などを買っていたという。

 彼は、立てば半度と言われる観音教の信者で、口グセのように「二十年の後には日本は必ず困る時がくる。きょうこの頃は、あまりにも人間が資材を使い過ぎているのは情けない」と言って、外出のたびごとに道に捨てられた紙ギレや、木ギレなどを拾い集めて蓄えていた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年11月10日中国新聞セレクト掲載)

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