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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (十九)相生橋界隈(その2)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 ある年の冬、井口骨董(こっとう)屋の主人である井口老人が相生橋近くの雁木(がんぎ)を素足で昇り降りしていたので、何をしているのかと尋ねてみると、この老人は川の中からガラスのかけらを拾い集めていると言う。

 これを見た近所のI氏は「お爺(じい)さん、何んがためにガラスのカケラを拾い集めるのか」とたずねた。すると井口老人は「子供はかわいいものだ。冬のうちにこのガラスのカケラを拾っておけば、子供が川で泳げる夏時分には、足も切らず喜んでくれるであろう。夏では遅い。今のうちに川の中におちているガラスのキレを拾ってやろう」と答えた。

 七つの川に遊ぶ広島の子供たちへの思いやりは、この井口老人に限らずあったもので、広島人の伝統的特性と言いたい。彼は若い時、上海に渡って易と石のことを研究したという。彼は何処から広島へ流れてきたのか判らないが、最後まで広島の子供たちを愛した老人であった。大正九年頃に老人が亡くなった時には、六千円の金を残していたという。子供たちに好かれた彼は、八十歳で近所の子供たちに野辺の送りをしてもらったと言う。

 がんす社の近くには、細い小路を隔てて西川医院や秋山という家があった。また、表通り中島本町へ抜ける通りには、南から天津万年筆屋があり、その隣には森信理髪店があった。この店の主人は野球ファン、特に広商ビイキで、広商チームの試合には、午後は店を閉めて出かけたという。

 当時の広陵ビイキのファンに看板屋の武さんがいたように、相当その名をうたわれたファンであった。広島機関庫あたりで若い者の髪を刈っていたが、興が湧けば昔の野球話をして若い者を煙にまいていたと言う。彼は広島のオールド野球ファン列伝に出てくる一人である。

 その隣の家はうどん屋で、次は玉突屋(四ツ玉二台)、その隣は広島では珍しいキンツバ屋で、朝から晩まで十七、八の娘サンが鉄板の上で「きんつば」を焼いていた。一個二銭のきんつばはボリュームがあって、さすがに一人で三個とは食べられなかった。きんつばという名は、あの頃の広島人には珍しいものであった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年11月17日中国新聞セレクト掲載)

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