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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十)慈仙寺(じせんじ)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 慈仙寺の墓地には、医家として石筍と号した尼子道竹先生、それに詩人として知られた武井淡山先生の墓がある。

 尼子道竹先生は上月城の一戦に敗れた尼子勝久の流れを汲(く)む人で、医術研究の目的で広島を去り、健脚にものをいわせて富士山に登り、山奥深く立ち入って草根や実などと取組むこと十二年、医学の真理を究めた。

 そして阿波の徳島に渡って開業し貞享二(1685)年広島に帰り、百三十石で藩に抱えられ、立町に住家を移して郷土の人たちを治療して名声を挙げた。そして宝永四(1707)年、全国的に麻疹が流行して、多数の死者を出したとき、その予防法を広く伝え、麻疹類要二巻を著して一大光明を与えたという。

 先生の挿話にはいろいろあるが、かつて藩公に従って江戸にのぼる途中、先生の名声を伝え聞いた人たちがその駅々で道竹先生を待ち受けて診察を願い出たという話がある。また江戸に滞在中、将軍家のある姫の病が篤(あつ)く、招かれて診断することになったと言う。

 ところが姫付きの侍が道竹の手腕を試そうとして、狆(ちん)の足に糸を結びつけて隣の部屋から糸脈を取らせた。すると道竹は立ち上がって「小生の技は拙きとはいえ、獣類の治療は御免(ごめん)こうむる」と籠に乗って帰ったと言う。この話が有名になって、将軍家の使いが礼を尽して、度々道竹先生を招いたが遂(つい)に道竹先生はその使いを断ったという。

 先生は寡言で豪胆、しかも詩文に通じた人であった。先生の交遊関係には木下順庵、室鳩巣、林羅山の諸先生があったが、中でも鳩巣先生とは親交があったという。晩年の先生は、家業を甥(おい)の田島玄格に譲って余生を楽しみ、享保九(1724)年八月六日に没したが、芸藩三代に仕えること四十年、六十七才であったという。

 また武井淡山先生は天保八(1837)年東白島松原の生まれで、明治四年廃藩置県後議員となり、同年の八月十一日旧藩学校修道館の句読師となった。

 のちに広島に新聞社を設立しようと自ら主唱者となり、新聞社の経営方法について地方有志の後援を求めるため長文の趣旨書を発表した。かくて同氏はその趣旨書通り新聞事業の率先者となったが、もともと政党の紛々たる渦中に投入することを好まず、常々超然たる態度を持したという。同氏の友達には坂谷朗虚、木原桑宅、星野文平、山田十竹、山田修平、辻将曹の諸氏があったが、明治十九年四月二日、病気で逝去、享年五十一であった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年12月8日中国新聞セレクト掲載)

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