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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十)慈仙寺(じせんじ)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 慈仙寺の墓地には、山中正雄氏の墓もあった。同氏は五日市の生まれで、明治二十年広島法律学校を設立した。更に同年十月に時の知事千田貞暁氏とともに山中女学校を創立し、三十三年間にわたって山中高等女学校のために生涯を捧げた。同氏は大正八年十一月十五日病没し、享年七十二歳であった。同氏の在任中、学校の卒業生は四千名といわれた。

 天才飛行家といわれた山県豊太郎氏の墓もこの寺にある。大正九年八月二十九日、同氏が千葉県津田沼での高等飛行教練中、突如愛機恵美号の右翼が折れ、二十二歳を一期に墜落惨死した。そして破損した恵美号のプロペラは慈仙寺の庫裡(くり)の壁に掲げられていたが、この記念のプロペラも庫裡もろとも原爆で焼けてしまった。

 なお筆者たちが見た山県飛行士の愛機は鶴羽根号で、操縦席のボディには白い鶴が飛んでいるマークが思い出される。同君の亡妹の名前を偲(しの)んで名付けたものであると言うことを、最近に思い出したので、この一事を書き加えて置く。

 本川筋に添うた本川橋と相生橋間の土手下には、そのかみの天才飛行士が静かに眠っている墓を見るにつけ、かつて饒津公園鶴羽根神社の境内に建てられた彼の銅像が思い出される。

 民間飛行士山県豊太郎君が左手を腰に当てて右手に航空眼鏡を持った温容な姿(これは広島出身の彫刻家山田直次氏の作品であった)を、今一度復元出来ればと希うのは筆者だけではあるまい。日本航空史の第一ページを飾った、若き天才児の勇姿を、平和広島の一角に永久に残したいと思う。

 山県飛行士の墓の近くにある島本秀吉氏の墓も、忘れられない。島本秀吉氏は猿楽町の島本理髪店の主人で、同氏は大正末期以来、同業者間のためにあらゆる進歩的な意見を広島県当局に具申し、理容師の向上に力を尽くし、最後には同業者より押されて市会議員となり、更に市会副議長となって、各方面から政治手腕を認められていたが、あの原爆で猿楽町で倒れたのは惜しまれている。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2019年12月15日中国新聞セレクト掲載)

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