×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十二)松井須磨子を偲(しの)んだカフェーブラジルでの会合(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 芸術座を主宰した島村抱月が急逝し、その後に松井須磨子が自殺した影響を受けて、大正九年一月五日夜、慈仙寺鼻中島本町にあるカフェーブラジルの二階に十一人座のメンバーほか、松井、森田両弁護士、西川芳渓氏も集まった。島村抱月、松井須磨子両氏の写真を拡大して舞台に飾り、その前に多数の花輪を飾って両氏を追悼する会を開いた。

 両故人の写真を中心に十一人のハリ切った聖徒たちが明るい顔で記念撮影を行っている。あれから三十三年、今や唯一人の座員広沢久雄君には感慨無量なものがあろう。

 この珍しい松井須磨子を追悼する会が行われたカフェーブラジルは、本店が神戸にあって、福岡と広島の両支店を開いて大正七年ごろから市民になじまれた西洋食堂で、従業員はほとんど男子、いわゆるボーイであった。純白のユニホームもサッパリとして、和服袴姿の中学生も大手を振ってコーヒーを飲みに入ったもので、一杯のコーヒーでも客扱いは立派であった。

 コーヒーは五銭、ケーキ一皿十銭で相当の時間ネバられたものだ。純白の制服を着たボーイは、ライスカレーの注文をうけると「何番サン、インデアン二チョウ」と電報を読むような声で、客からの注文を調理室に伝えたことも思い出される。ボーイだけの食堂、チップの要らないカフェーブラジルは広島人には長年なじまれた食堂であった。

 さて再び十一人座の話になるが、カフェーブラジルで松井須磨子を追悼する会をキッカケに十一人座の演劇活動はスタートを切った。即(すなわ)ち、その年の一月二十七日夜、真宗安芸門徒たちが親ラン上人をしのぶ夜の集い―毎年一月十五日夜に当るが、その年は旧暦によったのか―、塩屋町専勝寺で倉田百三氏作の「出家とその弟子」が上演された。広沢久雄君は親ランにふんしたという。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年1月26日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ