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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十二)松井須磨子を偲(しの)んだカフェーブラジルでの会合(その2)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 十一人座の「出家とその弟子」の上演で親ランにふんした広沢久雄君の述懐によると、上人が越後の雪中で左衛門に、ちょうちゃくされる場面になると、あまりのいたわしさに南無阿弥陀仏と念仏を唱える善男善女から、二銭銅貨のおさい銭を投げつけられた。

 親ランならぬ身の同君は、このさい銭つぶてに頭を抱えて逃げ出すワケにも行かず、閉幕まで投げ銭の苦難に甘んじたと言っている。この夜のことが写真入りで新聞に報ぜられたセイでか、真宗各寺から「出家とその弟子」の上演方申込みが殺到して当惑したとのことである。

 その後、大正九年三月三十一日、四月一日の両夜、たたみや町寿座前は、多数の美しい花輪に飾られて、記録的な第一回公演が行われた。

 二晩とも満員の盛況で、初公演のレパートリイは中村吉蔵作「帽子ピン」「出家とその弟子」シュミット・ボン作、森鷗外訳「ジオゲネスの誘惑」の三本建で、いずれもが前期文芸協会が上演したモノを広島地元人の手で再現させたものであった。

 イノに扮した竹田きよの演技は、その大柄がモノを言ってあでやかであり(この竹田きよは、終戦後議政壇上に登った呉出身の同名異人であったことはモチロンである)、また体躯堂堂たる食い盛りのような広沢久雄のジオゲネスは、親ランとは別人のような豪放な演技を見せ、市内のある酒造家から借用におよんだ大桶を舞台一ぱいにならべた装置は、左官町白馬堂主人の中原和夫の企画であった。

 幕間に、そのころ新川場橋西詰に油絵材料を扱って、文房具店を開業していた耳カクシ髪がよく似合った恒川女史が観客の列を縫うて、さくらの造花を売り歩いて(造花の枝には小さな絹切れの短冊が結んであって、これには十一人座という名が紫インキで書き込まれてあった)、十一人座の基金を集めた姿も思い出される。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年2月2日中国新聞セレクト掲載)

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