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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十二)松井須磨子を偲(しの)んだカフェーブラジルでの会合(その2)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 中学時代の筆者が、十一人座第一回公演の幕間に友人たちと雑談をしていると、いきなり右の肩を恒川女史に摑(つか)まれた。全くのところ残念ながら、あまりのショックを受けた筆者はタジタジと一言も言えなかったことを思い出すが、渡辺綱ならぬ筆者も突然に現われた耳かくし(髪)の恒川女史に摑まっては一言も口が利けなかったのは当然であった。

 筆者は決して恒川女史の造花を買う十銭という金を持っていなかったワケではなかった。肩を摑まれたトタンあまりのショックを受けて、ぼう然としたが、それぐらいボウ然すれば気は確かであると口の悪い仲間からヒヤかされた。

 この十一人座第一回公演の入場料は、下足料とも十銭であったが、一晩十人以上の入りで、小屋側としては舞台の諸経費を差引いても、手が打てたので十一人座は劇場側の信用を博して、それ以後の公演にはいつも寿座が提供されたという訳である。

 ここで筆を松井須磨子の話にもどすが、彼女の自殺後、全国的に今は亡き須磨子への憧れがあった。「カルメン」には中山歌子が役をフリ当てられて、須磨子を偲ぶ芸術座の全国行脚公演が行われた。広島へもその年の四月、寿座で「カルメン」が上演され、中山歌子は須磨子同様、北原白秋作詩中山晋平作曲の「煙草の歌」を唱って広島人をオドロカせた。この舞台を見たヒロシマ人は今もってカルメンの酒場で歌われた「一切合切みな煙」の煙草の歌を思い出している。ホセになった森英治郎は、後に広島放送局開局当時、度々マイクの前に立ったことがある。

 松井須磨子の後継者になった中山歌子は、大柄な須磨子に比べて、どちらかといえば小柄な女優で、後に大正九年、日活の向島撮影所に迎えられて、田中栄三の監督で、森英治郎とともに「朝日さす前」という映画を一本撮っているが、後に大岡山殺人事件での生き残りとなり、宗教界に入って余生を送った中山歌子であった。

 松井須磨子を偲んだカフェーブラジルでの会合には、以上のような挿話があったことを書き留めた次第である。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年2月9日中国新聞セレクト掲載)

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