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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十三)供養塔のある焦土にて(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 原爆記念日やヒロシマの日を迎えて思うことは、原子爆弾投下一年後の広島の各新聞に組まれた活字のことである。それらを拾ってみると、次のようなものがあった。

 「ひろしま新〝旧跡〟」(昭和二十一年七月十三日から八月五日まで夕刊ひろしまに連載)、「新生一年、原子沙漠に灯は点る」(同年八月一日から六回、中國新聞に連載)、「広島復興祭最高潮、八時十五分、全市を包む祈り」(中國新聞)、「新生第二年へ」(中國新聞社編集局同人座談会―同年八月九日から四日間にわたって連載)、また「終戦一年史」は同年八月十三日から十五日まで、中國新聞に三回にわたって「風俗」「県政」その他が掲載された。また中國新聞の「ヒロシマ復興一年の歩み」も、この手のハイライトであった。

 また「本因坊ひろしま復興を語る」という、昭和二十一年七月二十八日付夕刊ひろしまの一文は、当時の広島囲碁ファンには感銘深いものがあった。すなわち、日本棋院の〝本因坊継承戦〟は昭和二十年夏、広島市内で行う予定を市外五日市町の吉見園に変更したのだが、橋本八段(本因坊昭宇)に挑戦する岩本七段の対局中途でピカドンとなり、打ちかけで中止された。その続きが一年後の昭和二十一年七月二十六日、市外廿日市町蓮教寺の本堂で戦災死棋士の追善供養の意をふくめて行われたのである。

 第六回まで三対三のあとをうけて、七回目の決戦であった。本因坊、岩本七段のほか瀬越八段、細川六段、三輪五段、藤田、安永両四段、広島出身伊予本三段など、棋院の主だったところが広島に来り、午前十一時から本因坊の黒番で始められた。

 橋本八段は盤面をみつめること数分、静かに黒石をとり古札にのっとって相手側の片隅の小目にパチリと打ちおろし、岩本七段はメイ想五分間、反対側の目外しに寄り、第一日は打ちかけとなりつづきは東京で行われた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年2月16日中国新聞セレクト掲載)

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