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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十三)供養塔のある焦土にて(その1)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 昭和二十一年七月二十六日の追善供養連碁は、郷土出身の瀬越八段を将とする東組、橋本八段を将とする西組に、棋院棋士、地元有段者が十一名ずつに分れて、一人五手ずつが行われた。

 端厳そのものの橋本八段は、追善供養連碁の途中、もの静かにポツリ、ポツリと低声で語った。広島は棋道界が発達しているところで、昨年の夏は広島市内で打つ筈(はず)のところを「危いから五日市で」と広島支部役員の方に止められましたので助かったのです。その役員の方は亡くなられましたので追善供養をと思いまして、昨年のメンバー(呉八段をのぞき)全員でまいりました。

 復興には皆さんいろいろご苦労さまで非常に疲れられるのでしょうが、碁によって何もかも忘れる“無我の境地”に入ることも大切ではないでしょうかと、これは原爆に倒れた広島の棋士への本因坊の手向けの言葉でもあった。

 さて、表題に戻るのだが、筆者が昭和二十三年八月六日にものした一文を、「がんす横丁」につながる一文として差し加えることを許していただきたい。

 平和広場から、中島本町通りに出る。

 胸に白い造花を飾った小学生の一団が、ノー・モア・ヒロシマズのプラカードを押し立てた行進の列がつづく。

 五百名あまりの行列の中に、左腕を赤くやけただらせたり、首のあたりにケロイドのある、子供たちも交っている。

 本川仮橋から南側一帯は、ほとんど三年前そのままの焦土である。筆者の子供時代、この東側土手筋の八重ざくらが満開のころは夜ざくら見物に来たところであり、広島名物のかき舟二そうがこの本川橋と西地方町入口の新大橋との間にあって、広島特有の風情をかもし出していたところである。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年2月23日中国新聞セレクト掲載)

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