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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十四)供養塔のある焦土にて(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 本川仮橋東側のさくらのあった土手に、広島二中の供養塔が建てられている。二つの天幕が張られて、遺族の人たちが黒紋付姿にじゅずを持って式場のこしらえを待っている。

 新大橋の東詰土手には「広島市立高女一、二年生殉難供養塔」が建てられて、その側面には、「昭和二十年八月六日午前八時十五分広島市立高女一、二年生徒数百名重傷ノ身ヲ以テ此ノ地点マデ逃レ来リシモ、遂ニ力尽キ父ヲ呼ビ母ヲ慕イツツ救助モ待タズ此ノ場所ニ於テ哀レ若キ一生ヲ終ル」と、真新しく書かれてある。去年までの供養塔は同じ場所に引抜れたまま建てかけられて、二十歳あまりの娘さんが、顔を伏せてすすり泣いていた。

 時に九時十五分。サマータイムの実感は、ちょうどこの時刻である。「亡くなられたのは妹さんですか」と訊(たず)ねると、「そうです。二年前に来た時には、この場所で未だ生きていました」と泣きつづける。感極まってのおえつが暫(しばら)くつづく。

 五十歳がらみの母親が、じゅずを手繰りながら「今朝はごはんが一粒ものどをとおりませんでした。かわいそうで、かわいそうで」と、あとは娘さん同様、泣きくずれる。この墓標を囲んで、色燈籠(とうろう)の十数本が立てられ、真新しい花のかずかずと果物が供えられている。

 この墓標近くには、広島市第二国民学校、広島県立工業一年生、広島市立造船工業学校などそれぞれの墓標も建てられていて、亡き子供たちをしのぶ母親たちが腰をおろして、あの日の思い出に耽(ふけ)っているあたり、涙なしでは見られない光景である。

 思えばあの日、広島市内の中学校の一年生は建物疎開の取りかたづけのために、この地一帯に動員され、作業中をあの一弾によって全滅したのである。橋のたもとには、昨年見かけたままの小さな標柱が建てられている。

 故二中熊谷孟に捧ぐ 父如月
 夏草の橋根に佇ちて言葉なし

 この標柱は、一年間の風雨にさらされて黒ずんではいるが、父親のあきらめきれぬ子への追憶は今年も繰り返されて、この墓標よりもはるかに大きい花筒には美しい花がささげられていた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年3月1日中国新聞セレクト掲載)

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