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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十四)供養塔のある焦土にて(その2)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 新大橋の東側一帯、鉄道草の生い茂っているあたりは、十五、六歳の少年少女たちが、彼らの先生たちとともに、ことごとく打ち倒れたところで、二年前まではクツ、帯革、帽子、キ章など、遺品の数々が見られた。広島の復興が早いなどという人たちは、文字通り一人の生存者もなかった、この荒涼たる地点に来て、はるか爆心地にあるもと産業奨励館の赤さびたドームをながめるがよい。ヒロシマはまだ復興されたとは言えないはずである。

 恐らくこのあたりは何十年後までも、このままの荒れた姿が、つづくのではあるまいか。古い白壁の倉庫、寺院、赤い洋館、商店、住家などの密集したこの地帯、現在では見渡すかぎり石くれと、ペンペン草、そして墓石だらけのうらぶれた草原である。

 ヒロシマを訪れる人たちは、このあたりの風景を見てこそ、広島の悲劇を繰り返すなの気持ちを切実に感じることであろう。広島地図でもこの供養塔のある焦土だけは、いつまでも原子砂漠地帯で、恐らくは三年前そのままの姿が残されているといっても過言ではあるまい。

 この焦土の叙景は、じつのところ、これ以上には描き切れない。私には、どうしても、これ以上には書けないところである。また、二十六年十一月二十七日の中国新聞紙上には、原民喜氏の詩碑をめぐっての一文を書いて、そのタイトルには「原子爆弾まんだら」を使ったが、これは「夏の花」のエッセイにある「地獄と抵抗して生きるには、無限の愛と忍耐を要する」の一文を重ねて書き加えた次第である。

 更に二十六年の八月六日には新大橋近くの木挽町持明院の一隅に「教え子を水槽に入れて自分はおういとなりて逝きし師のあり万歳の声をいまわに倒れてゆきし、清き乙女の赤き血の色ゆきゆきてかえらぬ人の面影をしのびて夜半の木枯をきく」という、広島市女原爆追悼碑も建てられた。

 更に広島女学院原爆慰霊碑は去る五月十八日、牛田の山上に「無限の宇宙と永遠の平和」を象徴するモニュメントが建てられ、この原爆の記念日には夏の陽を浴びた千七百名の乙女たちが亡き師や友を偲(しの)び深くぬかずく姿がみられたことであろう。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年3月8日中国新聞セレクト掲載)

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