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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十五)腐っても鯛の中島本町(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 腐っても鯛は鯛と言われた中島本町は、明治、大正、昭和三代にかけて、広島の盛り場のメッカと言われたものである。三代にわたってこの盛り場の思い出にはいろいろある。

 既に大正年間の終わり頃には、中島界隈(かいわい)はさびれていた。残念ながら原爆後の中島本町は、かつての盛り場の中心地であった辺りは平和公園の中に吸い込まれてしまった。東西の繁華街に通ずる中心地点で、昔は目抜街の一等地として鳴らしたことは、白井権八のセリフではないが、中国筋にも名をトドロかせたものであった。

 この界ワイは言わばお坊ちゃん育ちのお人好しがたたって、急テンポな時代にあっ気なく見捨てられて、折角の一等地もがた落ちになった。それでも華やかな時代の惰力で、慈仙寺鼻と天神町寄りの一画にはカフェー七軒、料理屋五軒、一杯飲み屋が十一軒、映画常設館が二軒という繁華街らしいスクラムを組んでお茶をニゴしたという。大正中期の話である。

 ここで最も惨めだったのは、かつての中島勧商場が、まるであばら屋のような姿をさらしていたことで、これらの土地が例外なしに担保流れで銀行の所有地になっていたという。そのかみの大商店の没落を裏書して一抹の哀愁を感じさせたものである。あの界隈は地理的条件に恵まれながら、町内に空家が一時は四十軒以上もあったといわれた寂れ方であった。

 かつて集散場とか勧商場といわれた時代の中島本町界隈は広島人にはこの上もない心温まる歓楽境でもあった。その第一は明治十五年三月に出来た中島集散場で、まさに広島最初の歓楽街であった。

 最初の店舗は十七戸で、敷地は千三百坪と記録されている。二番目に出来たのは前にも書いた横町の商工倶楽部の三十五戸で、明治二十二年五月だった。そして三番目は明治二十五年四月、同じ中島本町にデビューした中島勧商場で店は十二軒、さらに十年後の明治三十五年六月には中島本町に第二集散場として五軒の店が出来た。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年3月15日中国新聞セレクト掲載)

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