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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十五)腐っても鯛の中島本町(その1)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 中島集産場ははじめ十七戸の店だったが、後には四十戸近い店が並んで、一時はなかなかの活気を呈したものである。店のほとんどは袋物商や小間物商で、玉突きや玉転がしの遊戯場も並んだ。

 集産場の中心には胡子座、大黒座の二つの寄席が明治十五年三月に誕生した。一説には、この胡子座と大黒座は共に明治十八年十月十三日にコケラ落しをやったもので、座主は共に後藤田千十郎で客の収容数は胡子座が八百七十二名、大黒座は五百六十六名という記録が残っている。

 そして、この二つの常設館前の広場には、ときどき掛け小屋が出来て興行が行われた。春秋の二季には、己斐あたりから出かけた植木屋が、石油ランプを点じて植木店を出していたのは、そのころの広島名物でもあった。この中島集散場の植木市は大正末期までも盛んであったと思う。

 胡子座と大黒座がいつごろまで興行をつづけたかは知らないが、筆者たちの七、八歳ごろの記憶によると、大黒座には夏時分にチンコ芝居(子供芝居)が人気を集めていた。

 開演途中、時々表の幕を引きあげて、小屋の前を通るお客さんに芝居を見せると言う揚幕のシカケが、この大黒座商法でもあった。

 筆者たちは広島の東部に住んでいながら、祖父に連れられて中島集散場界隈(かいわい)を散歩したもので、その機会にしばしば幕の開いているチンコ芝居を見た。子供心に白井権八の鈴ヶ森は今でもハッキリと覚えている。

 黒紋付の権八が、裾をはし折って浅黄色の下着を一寸のぞかせて、雲助と大立回りの途中を白い足をひろげて浅黄色の下着をみせているあたりは、なかなかエロチックなものであった。立回りの途中、早鐘になっての権八のポーズには、黒紋付それも井桁の紋がクッキリと浮いて、子供心に美しい芝居だと思った。

 雲助のグロテスクさも、この権八役者の美しさにかき消されているようで、早鐘になっての立回りは時々前の幕を意地悪く引きおろして見せてくれなかったのでうらめしく思った。

 大黒座には明治四十一年の夏、シネマトグラフが公開された。この晩、この小屋は文字どおりの満員で、やがて幕が開くと舞台中央にわけの判らない機械が並べてあって洋服紳士が現れて機械の説明をはじめたが、終るまでにかなりの時間があったようである。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年3月29日中国新聞セレクト掲載)

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