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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十六)腐っても鯛の中島本町(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 大黒座の舞台に並べられた台の上に、ガラス製の器具が置かれて、それに強烈な光が点ぜられた。場内がなんとなくキンチョウしたと思われたとき、やがて舞台中央の紳士は舞台の前方につりあげられた、畳一枚ぐらいのスクリーンをおろしはじめた。このとき機械の燈が急に真紅な火花となって、大きな音響をともなって爆発した。

 瞬間、筆者の小さな身体は宙を浮いて外に運び出された。と言うのは、伯父のたくましい腕に抱えられて、混乱の観衆の中をくぐり抜けて場外に出て行った。せっかくの興行も、この騒ぎで見損なったのであるが、どうやら、これはシネマトグラフの一種で、自動幻燈と言われたものではなかったかと思う。これが恐らくは、広島での最初の活動写真に似た興行ではなかったかと思う。

 広島最初の盛り場は中島本町の集散場で、その中心は前述のように大黒座で、もっぱらちんこ芝居が行われた。明治四十三年(1910年)に、大黒座の隣りにあった胡子座が活動写真常設館となり「世界館」が誕生した。これが広島最初の映画常設館で、その翌四十四年には堀川町中央勧商場にあった娘義太夫の定席八千代座が映画館に転向した。広島の活動写真史を語るには、この胡子座と八千代座のことを忘れてはならないと思う。

 世界観は主として横田商会の作品である初期尾上松之助の写真を上映した。いわゆる「はやし鳴物、声色をあしらって」の演出で、「目玉の松ちゃん」映画が人気を呼んだものだ。松ちゃんの声色には、左官町あたりで煙草屋をやっていた「おごうさん」がアルバイトにやっていたものであるが、この「おごうさん」はもともとちんこ芝居の出身であったかもしれない。

 当時、この世界観で上映された松之助映画は、“石山軍記”の「木村長門守」や「酒井の太鼓」、それに「柳生二がい笠」「笹野権三」「相馬大作」などで、大正初期にかけて上映された。松ちゃんの立回りモノがもちろん呼びものとなっていたが、当時としては立派なトリック映画と言われた「飛弾の内匠」が、映画技術のトリックが受けて、連日満員の盛況であったことを覚えている。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年4月5日中国新聞セレクト掲載)

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