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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十六)腐っても鯛の中島本町(その2)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 世界館の主任ベン士は桂大正で、彼の前説もなかなかの人気であった。コッケイモノを担当した清水も子供連中に人気のあった解説者で、彼はいつもサッソウたるタキシード服(あるいはモーニング服であったかも知れぬ)で自転車に乗り、堀川町の中央勧商場の八千代座付近に現れて、あちこちの悪童どもに愛嬌(あいきょう)を振りまいたもので、時には勧商場の広場で子供相手のゴムマリの投げ合い―言うならば野球をやって子供たちを喜ばせた。

 のちに、この世界館が昭和シネマと改称されたのが昭和二年で、もっぱらパラマウント作品が上映された。長年、八丁堀の東洋座で人気を集めた白藤愛光が転じて、かつての広島映画界の大御所と言われた蕗の家凌雨以上の人気を博したものである。

 バレンチノの「血と砂」、ウィル・ロジャースやチャールス・レイの田園風物詩もの、バーセルメス、ギッシュの「散り行く花」「東への道」、それにアラ・ナジモバ夫人二役主演の「レッド・ランタン」(決して赤ちょうちんではない)は、伴奏曲の大湖船とともに若人たちの血をわきたたせたものである。

 中島集散場のあとを追うように、十年後に出来あがったのが中島勧商場である。すなわち慈仙寺鼻の入口にあって、集散場と南北相対した存在であった。

 明治二十五年四月の開設で、勧商場にあった商店は二十戸もあって、場内の広さは二百五十坪(約825平方メートル)で、その中央には寄席の鶴の席があった。

 この鶴の席の座主は浜田治兵衛氏で、この寄席が出来たのは中島集散場の胡子座、大黒座とほとんど同じように明治十八年十月十二日で、集散場の二座よりも一日早くコケラ落しをやっている。収容人員は六百九十六名で胡子座より狭く、大黒座より広い寄席であった。なお明治三十五年六月に中島集散場の一角に中島第二集散場が出来たが、店はわずかに五軒であった。

 鶴の席と言えば、舞台上部に長さ六メートルぐらいの押絵の鶴が飾ってあったのも忘れられない。この寄席は、集散場にあった胡子座のあとを追って明治四十五年に活動写真に転向して、喜楽館という名の活動写真常設館になった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年4月12日中国新聞セレクト掲載)

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