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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十七)腐っても鯛の中島本町(その3)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 慈仙寺横の第二集散場の喜楽館は、横田商会の尾上松之助モノのほかに、中村扇太郎、市川姉蔵モノを上映し、主任ベン士は竹中道明で、連続物「鉄の爪」は広島西部ファン(決して西部劇ファンの意味ではナイ)の人気を集めた。

 喜楽館は後に横田商会の配給を断って、マキノものを上映した。当時の新人高木新平の「怪傑鷹」や市川幡谷の「佐平次捕物帳」は好評を博したもので、若かりし日の阪東妻三郎が幡谷映画で活躍しはじめたのもこのころであった。「鮮血の手型」も、この喜楽館で大当りを取ったマキノ映画であった。

 八丁堀にあった太陽館の、前説のうまかった中村来恩は、猛獣ライオンとは、およそ似ても似つかない恐ろしくない来恩で、右肩を高くつり上げ、反対に左肩をガックリ落して、前説のうちに必ず「さいながらにして」という言葉を使った来恩であった。

 決して前説のウマイ弁士とは思えなかったが、前説の途中のこの「さいながらにして」という言葉には一種のミリョクがあった。後に高千穂館のマネージャーとして、太陽館をやめて喜楽館の経営に専念したらしい。昭和五、六年ごろまで来恩は高千穂館を経営していたが、その後のことは知らない。

 なお明治十六年十月に出版された「広島案内記」とも言われるものに、当時の商店街のことが次のように綴(つづ)ってある。それによると、中島本町では阿部平助氏の砂糖業、それに奇抜と言われたのは町内の落仙次郎時計店から出した注意書で、そのころの人気を集めたものである。

 その注意書によると「誤って時計を海や川に落した場合には、直ぐに採り上げて直ちに燈し油に入れて、そのまま持参せられ度、水中から取り出したまま御持参の品は修繕のほどお請合い申しかねます」と書いてあった。水が付いては機械がサビるためにこの注意書きが出されたもので、広島の商法もある程度、科学的に運ばれたものらしい。

 写真師には、中島慈仙寺鼻の田中看堂が腕のさえを見せたと言う。また慈仙寺前の道家伊之助氏が経営した松風亭という名の揚弓場があり、中島新地には射的ズドン亭があって、お座敷に上って射的を楽しんだとのことである。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年4月19日中国新聞セレクト掲載)

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