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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十七)腐っても鯛の中島本町(その3)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 明治三十年の広島地図による中島界隈(かいわい)の商店には、中島本町北側に久保木合名会社の文房具、住友銀行支店東どなりに浮田お多福店の京都白川染友仙があった。また木原商店(屋号ゑり保)は半襟、慈仙寺鼻には「泡雪豆腐」の水月楼があり、天神町筋の元安楼はお手軽会席でその名をうたわれたと言う。

 また明治三十四年の広島地図による中島本町の主なる商店、医院などを拾ってみると、慈仙寺鼻の勝田医院は耳鼻咽喉梅毒皮膚専門、小児科専門医の小泉質、歯科専門医の熊谷医院、内科専門の阿戸源左衛門、産科専門入歯師の尾崎政吉、また百十六番邸には立野力太郎の伊予屋時計商、中村カツの料理商元安楼、慈仙寺鼻の田中幸左衛門は写真業の精看堂、百四十五番邸の木原商店は屋号をゑり保と言って小間物並びに半えり帯揚類一式、また中島本町角の木原支店、久保木合名会社の宝恵堂は筆墨製造販売、六十九番邸の太田幸吉は備幸商店で米穀肥料仲買、元安橋西詰近田宗兵衛の呉服商並仕立物という文字が並べてあった。

 これらは明治三十四年以前の中島本町界隈での記録に残っている商店や医院の名前であるが、日清戦役当時の挿話の一つには、次のような話もある。最近筆者が、Mさんから聞いた話である。Mさんは長年中島本町で商業を営んだ人で、その彼が祖母から聞かされたという話である。

 それは明治二十七年の暮、中島本町の本通りに菅平領という下駄屋があった。この店の主人はちょっとした思いつきで満州に渡る軍夫のために大きな布製の手袋を発明したという。この手袋のなかには唐辛子が入れてあっただけの仕掛であったが、現地に渡った軍夫たちから非常な好評を博したもので、まずあの手袋を買って行けば手が温かくて仕事が捗(はかど)るという人気を集めて、宇品から出港する軍夫のマスコット用としてなかなかの好評を博し、飛ぶように売れたという。

 この下駄屋さんは、手元に入ってくる紙幣をタンス(簞笥)に入れたが、そのタンスのひきだしがなかなか締らなかったというウソのような話であった。そのかみの軍都広島には、この話に似た実話はいろいろ聞いているが、この話は白眉であった。科学の何たるやを知らない下駄屋さんが、ちょっとした工夫でこの効果を挙げたことは、嘘のような実話で、この大儲けをした後日物語が何も伝えられていないのは寂しい。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年4月26日中国新聞セレクト掲載)

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