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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十八)腐っても鯛の中島本町(その4)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 この中島本町で忘れてならないのは、天保年間に三種類のローカル詩が発刊されたことである。そしてその版元が、いずれも中島本町であったということは、いかにも中島本町が広島文化の発祥地であったの感を与えて感ガイ無量なものがある。

 宮島の厳島神社の絵馬を集めた「厳島絵馬鑑」五冊は天保三(1832)年に初発刊されたものであるが、明治二十八年二月二十日に再発行されたものには、広島市中島本町百三十九番地森光治郎の名前が見られる。

 また天保十三(42)年正月に刊行された「芸州厳島図絵」十冊は、中島本町世並屋伊兵衛が版元になっている。また天保十五(44)年二月に発刊した「芸備孝義伝」四十冊も同じ中島本町世並屋伊兵衛が版元で、「厳島図絵」「孝義伝」ともその彫刻は「広島、山口宗五郎」となっている。

 世並屋伊兵衛、森光治郎とも、中島本町に住んでいた広島の大先輩であり、その業績は広島人として決して忘れてならないと思う。また宮島人としても、「芸州厳島図絵」をものした世並屋伊兵衛と「厳島絵馬鑑」を発刊した森光治郎の名前は忘れられない。

 中島本町界隈(かいわい)の結びに、大正末期から昭和初期にかけての商家の名を並べてみよう。

 元安橋を西に渡ると、南側のツケ根は洋服学校であったが、これは元寿司徳ホール(その以前は三田源呉服店)だった。寿司徳ホール時代、そのかみ広島出身の跳躍映画俳優のハヤブサ・ヒデトが、このホールの二階の窓から寒中の元安川に飛び込んで、郷土人にその猛優ぶりを見せたものだった。

 川に飛び込んだトタン、彼の身体に太田川の流れがピッチャリとぶつかった音がした。次の瞬間に、川に流れていた広島菜のコマ切れの中から、ニッコリとしたハヤブサ・ヒデトの笑顔が見られたことを思い出す。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年5月3日中国新聞セレクト掲載)

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