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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十八)腐っても鯛の中島本町(その4)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 琴、三味線の三田屋は天明三(1783)年に亡くなった初代以来、四代目にかけて材木町にある日蓮宗妙法寺境内にある瘡守大明神とは深い因縁のある旧家で、現在本通一丁目の当主は九代目に当ると言う。また隣は山本メガネ店で、屋上には播磨屋町赤松薬局の順血三日散の大看板が掲げられていた。夜は電気燈でこの看板が明るく照らし出されたものである。

 山本メガネ店の隣は模型飛行機を売る店、またその隣は元三十四銀行支店で、そのかみの詩人大木惇夫氏が広商を出てしばらくこの銀行に勤務したところであった。さらに木原かもじ店、モスリン店大津屋、そして天神町筋の角は大正屋呉服店、倉本ラジオ店、原色相互印刷(松井富一氏経営)、越智医院(もとカフェー朝日亭)、元安橋の順であった。

 また天神町に通じる道は、角の大正屋呉服店(以前には小屋石旅館から丸萬うどん屋、更に安原袋物屋となった)、一番小路、中川周一株式店、榊原ハン船問屋、油商(びんつけ)佐伯屋、料亭すし徳(井上力三郎氏経営。昭和三年秋、大相撲広島場所が行われた際には横綱常の花が常宿にしていた)、隣は筑紫眼科医院、陶器商川本泰工堂本家、江口外科医院、二番小路の順。

 江口医院の前は綿、酒商の名木勝太郎の店から本通りに向けて、左から陶器商川本泰工堂の分家、袋物商藤井太兵衛、薬屋正岡百太郎、保田紙屋、集産場入口、角の店は下駄屋大藤喜兵衛で、同家は広島での打身薬の元祖ばかりではなく、好事家に喜ばれた絹糸草を扱った店でもあった。

 隣は松谷時計店(現在新天地)、辻本浪花床(広島での高級理髪店で、お得意客の出入口は別のところにあって、当時広島実業界の大御所と言われた松浦泰次郎氏もモッパラこの浪花床を利用していたという)、隣は広島商業第二期黄金時代の野球選手であった故木本正一君の実家木本八百屋、そしてモスリン屋の大津屋、本通りの順であった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年5月17日中国新聞セレクト掲載)

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