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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十九)元柳町(東本川)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 本川橋は、もとの名を猫屋橋と言われた。天正年間(1573~92年)に猫屋町の豪商猫屋九郎右衛門兼鎮が、私財を出して架設したもので、九郎右衛門の子供達十二人(男女各六人)が相携えて、橋の渡りぞめ式を行ったという。この橋を架設した主人の屋号をそのまま猫屋橋と命名したと言い伝えられている。

 そして三百二十余年後の明治三十年には、長年呼びなれた猫屋橋を本川橋と改称したが、この本川橋の名称は、太田川の本流に架けられたという橋を意味したものでもあった。

 本川橋は明治三十年に「バースリング式鉄製トラス」に改造されたもので、工費は三万四千四百二十八円という当時の記録がある。いわゆる鉄製つり橋で、この橋を西に渡ったたもとにあった菓子屋鉄橋堂には「本川まんじゅう」があった。この店の創業は同じ明治三十年であった。広島への原爆投下とともに、長年広島人になじまれたこの「本川まんじゅう」も姿を消してしまった。

 この本川橋の東詰から川しもに沿うあたりを通称東本川というが、橋のたもとにあった本格的なかき船の風情も、そのかみの「ひろしま」を代表した風景であった。

 戦後の上陸用軍船を利用したかき船も面白いが、そのかみの本格的なかき船は懐かしいものであった。そして、このかき船が見られるあたりの石造りの堤防には、九本のかなり古い桜の木があった。この桜は八重ざくらで、比治山や長寿園、饒津公園の桜が散ると、次の番を待っているのがこの東本川と西遊郭の上等筋にあった八重ざくらであった。

 筆者の子供の時分には、祖父に連れられてこの本川のさくらを見たもので、特に夜間にはこの桜にぼんぼりをつったり、豆電球をくくりつけて、夜桜の風情を満喫させた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年5月24日中国新聞セレクト掲載)

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