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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十九)元柳町(東本川)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 筆者のこどもの時分には、東本川界隈(かいわい)は八重桜を見る家族連れの客で賑(にぎ)わった。そして筆者たちは更に祖父に連れられて、西遊郭上等筋の真ん中にあった同じ八重桜を見物したことを思い出す。

 思えばあの八月六日原爆下にさらされた広島人、特に学徒動員の中学生、女学生たちが家屋疎開工事中、この八重桜のあった堤防上に父母の名を呼びつづけて倒れたことを思えば、いまさらながら東本川の悲劇がしのばれる。

 八重桜の見られた東本川界隈には、北から南へ回漕店可部勘、山瀬歯科医院の順で、その隣には駒井歯科医院があった。この歯科医院の駒井只一君は、かつて東京歯科医専の相撲部の選手で、身長六尺二寸(約188センチ)もあった東京学生相撲界の第一人者であった。駒井君はモチロン広島の出身で、明治四十四年常陸山、梅ケ谷の一行が八丁堀の埋め立て地で興業中に、常陸山から礼をつくして弟子入りを懇望された。

 すでに駒井君の学生時代を知っている常陸山は、広島への興行先でこの機会をつかんで勧誘したもので、駒井君は相撲界に入る決心をしたという。上京して常陸山に弟子入りした駒井君は「厳島」のシコ名を貰い、角界から将来の横綱と目されていたが、好事魔多しのたとえにもれず、急性肺炎で忽然(こつぜん)として亡くなったと言う。筆者は師匠を常陸山と聞いているが、一説には厳島の師匠は太刀山であったようにも聞いている。

 また、材木町に入る角には、芸備銀行(広島銀行の前身)があったが、後にここはひとのみちの支部にもなった。この界隈での先達銀行には、明治二十八年一月、資本金十二万円の株式組織で中島新町に開業した広島貯蓄銀行があるが、この銀行は大阪以西で最初の貯蓄銀行であった。この貯蓄銀行は後に広島産業銀行となった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年5月31日中国新聞セレクト掲載)

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