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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (二十九)元柳町(東本川)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 明治三十年一月には資本金五拾萬円で中島本町に後藤田銀行が開業し、三十年二月には中島本町に住友銀行広島支店が、また三十年十月には中島本町に中國商業銀行が、また三十一年五月には資本金四萬二千円で中島新町に崇徳銀行が設立された。

 なお、明治十年十月に発売された科部市助著の「広島細見縮図」によると、東本川の一角には「広島電信局」の印があるが、この広島電信局は明治六年十月一日に初めて中島新町に設けられ、広島最初の電信取扱事務が開始されたものである。もっとも、明治十二年五月には大手町二丁目に移転している。

 そして、前記広島電信局の前、すなわち伝福寺、妙法寺入口の中島新町の一角には、明治九年八月に広島警察局が設置され、同時に大手筋二丁目にあった広島警察本局も同所に移転したという記録がある。

 産業面での昔話には、元柳町の船越豊次郎氏が紙箱の製造法を大阪で習得して、明治二十三年に広島最初の製造をはじめたことも広島市産業史の記録に残されている。船越氏に次いでは二十九年、大手町の高橋敏雄氏、材木町の田中谷太郎氏たちが紙箱製造業をはじめて、中国、朝鮮、米国ハワイなどの海外にも輸出したという。

 東本川で忘れられないのは、広島名物の御供船風景である。厳島図絵には本川口に二十艘もの御供船が見られるが、この御供船風景は、西本川界隈(かいわい)で再記するとしよう。

 終わりに元柳町の町名であるが、この界隈にはかなりの柳が植えられたもので「柳町」と言われていた。それに「元」の字を加えたのは、後に東柳町(京橋東詰下手河岸)が新たに出来たためにこれに対する「元」の字を加えて町名にしたと言う。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年6月7日中国新聞セレクト掲載)

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