×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十)材木町(その1)杉原鉄城大人㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 材木町は昔から材木商が多かったために、この町名となっているが、隣の木挽町とともに、広島としては珍しいコンビ町である。

 この二つの町に並んだ天神町は、そのかみの別名を船町と言って、元安川をのぼって来る河舟や海船がこの河岸に集まって、旅客や荷物の揚げ降ろしに賑(にぎ)わったところで、知新集に出ているこれらの町名によって当時の広島の生態の一端をうかがうことが出来るワケである。

 そして、材木町界隈(かいわい)の小路にはそれぞれ昔の風情があったもので、筆者たちの古い広島人には懐かしいものである。すなわち、すでに書いた「両替小路」は中島本町を東から妙法寺前に抜ける小路のことで、この両替小路を西から東へ中央突破したあたりには、中島本町の浄宝寺の前を「浄宝寺小路」と言った。

 また、日蓮宗妙法寺前を東西に抜けるあたりを「かさもり小路」、大手町四丁目の橋を西に渡って入る小路は「誓願寺小路」、また誓願寺の南隣の小路は「井筒屋小路」と言われたものである。  以上はいずれも材木町では昔ながらの小路の記録であるが、比較的新しい話題には奇人と言われた杉原鉄城氏の挿話がある。

 時はまさに大正十年ごろのことである。ところは活動写真館世界館の近くにあった材木町で、この界隈としてはかなりよく知られたT氏の家に友人K君が下宿していた。

 K君は福山の商家の長男で、県商の生徒であったが、彼のニックネームを「牛」(カウ)と言った。相生橋界隈で書いた「金つば屋」の四角な作品を十個あまりペロリと平らげて平気でいた彼であった。その彼も、左官町にあった高木しるこ本店の大どんぶりのぜんざいを十ぱい平らげて、大いに「牛」ぶりを発揮したまではよかったが、店を出たトタンにのびてしまったことがあった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年6月14年中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ