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校庭で弟黒焦げ 海渡り路上生活 原爆孤児友田さん 母校・袋町小で初証言

三次に集団疎開 募った寂しさ

 爆心地から約460メートルの袋町国民学校(現袋町小、広島市中区)で被爆し、原爆孤児となって朝鮮半島に渡った経験を持つ友田典弘(つねひろ)さん(85)=大阪府門真市=が母校を訪れて体験を語った。広島市内に滞在中、当時の自らの足取りをたどる機会も得た。その友田さんに同行しながら、9歳だった少年の過酷な人生を見つめた。(湯浅梨奈)

 「地下にあるげた箱で靴を履き替えていた時、爆風に飛ばされました」。10月29日、友田さんは4年生だった当時の記憶を5、6年生約80人に語り掛けた。母校での証言は初めてだ。

 父は病死しており、母タツヨさんと二つ違いの弟幸生さんと3人暮らし。あの日、大手町6丁目(現中区)の自宅から登校した。一緒だった幸生さんは、朝礼のため校庭に出ていた。

 被爆後、意識を取り戻して校庭を見ると、幸生さんら児童たちが黒焦げになっていた。「靴にトモダと書かれていた。歯だけ異様に白かった」

 その後、比治山方面に逃げたという。「坂の上から皮膚がだらーっと溶けた女性が歩いてきた。防空壕(ごう)が三つあった」。中にいたのは15人ほどで「3日間飲まず食わずだった」と振り返る。

 4日目に、路面電車の軌道に沿って自宅を目指す。「遺体の上を歩くのが怖かった」。家の焼け跡にたどり着くと、焦げた自分の自転車だけがかろうじて形を保っていた。76年ぶりにその動線をたどるため、車を走らせた。電車が目に入ると「宮島線ですか」とつぶやき、じっと見つめていた。

 友田さんは原爆が投下される前月に、三次市の善立寺へ集団疎開している。今回、寺を再訪して「ここにみんなで布団を敷いて寝た。朝は廊下で床を拭いたよ」と懐かしんだ。

 ところが疎開はわずか4日間だったという。食事に出るイナゴが食べられず、寂しくなった。母と弟が三次まで迎えに来た。「兄ちゃん、帰ろう」と言った弟の記憶がよみがえった。寺に残っていれば、あれほどの近距離で被爆することもなかったろう。「でも8月6日の朝まで家族と一緒に過ごせたからよかったよ」。友田さんは涙ぐんだ。

 母と再会できずにいた友田さんの転機は、かつて自宅に間借りしていた朝鮮半島出身の男性と再会したことだったという。間もなく一緒に海を渡った。しかし男性の家族からの過酷な扱いに耐えきれず、13歳の時にソウルの漢江大橋のたもとなどで路上生活を始める。1950年に朝鮮戦争が始まると、銃撃戦で何度も命の危険にさらされた。

 「帰国して母に会いたい」と思い続けた。路上生活中に手を差し伸べてくれた女性が、日本語をほとんど忘れた友田さんに代わって日本語で嘆願の手紙を書き、広島へ何度も送ってくれた。当時の浜井信三市長の支援を受け、日韓間に国交がなかった60年、24歳で帰国。そこでタツヨさんの被爆死を知る。

 広島市内で勤めた後、大阪に移った。2年前に胃がんの手術を受け、今は静かに暮らしている。今回、広島の音楽家でつくる市民グループから音楽祭での登壇を依頼され、袋町小からも証言を請われた。引き受けたのは「校庭で死んだ弟のことを伝えたい」との思いから。「やっぱり核兵器はいけない。戦争が起きないように、頑張ってください…」。袋町小で語った言葉が児童に届いてほしい。

(2021年11月8日朝刊掲載)

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