×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十)材木町(その1)杉原鉄城大人㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 筆者は新天座裏の通称弁護士通りに住んでいたので、この通りをさっそうとして歩く鉄城の姿をしばしば見かけたものだが、彼が訪問するのはほとんど弁護士の家で、一年に二度ぐらい顔を出すのを「税金」と言った。これは彼が言ったのではなく、税金を払う側での言葉であった。彼は何も言わず顔を出すだけで、結構、訪問先に喜ばれたもので、鉄城大人が顔を出す家はそれぞれに一応の名誉税を喜んで払ったような結果になった。

 これは、当時の世の中が、斯(か)くもふくらみのある、豊かな世の中の証左でもあったワケである。杉原鉄城氏が「五大洲を打って一丸となす」の論旨をふりかざしていたのは、決して世界侵略を言ったものではなく、言うならば世界連邦の構想を述べたもので、当時狂人扱いされた鉄城大人の論旨には今更の感に打たれる。

 彼は、決して自分で議論を吹っかける男ではなかった。「君はどう思うか」「そうだ、ワシもそう思う」と、彼は先方に必ず話をさせて、その後から自分の意見を述べたもので、この点、大人は決して敵をつくらなかったようである。そして「ワシも郡長よりは偉い」といった言葉は、彼の稚気がそのままあらわれているようである。

 かつて東郷平八郎元帥や、京都のある寺の管長を訪ねての挿話もあるが、それよりも彼が若い奥さんと一緒になったころは、筆者たちが大いにあてられたものであった。彼が若妻とサッソウと本通りの繁華街を流して歩いた風景が思い出されるが、それよりも鉄城大人の二世が生まれた時の喜びも思い出される。

 再び本通りの話になるが、サッソウたる鉄城が愛児を抱き、時には乳母車に乗せて、本ブラをやった風景は微笑(ほほえ)ましいものであった。わが子への限りない愛情を見せた鉄城大人のその後については、筆者は何も知らない。彼の漢詩は、通人には定評があった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年6月28日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ