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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十一)材木町(その2)かさもり大明神と正道稲荷大明神㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 材木町界隈(かいわい)には誓願寺のほかに伝福寺、妙法寺、浄円寺、慶蔵院、安楽院などがあるが、その中で日蓮宗妙法寺のあれこれをお伝えしよう。

 妙法寺は、通称「かさもり小路」の中央にあった寺で、感応山寂光院とも言われた。本尊は妙頂寺と同じで、福島正則時代に僧日安が広島に開基したものと言われる。

 文政元(1818)年十月、この寺の十三世日宝が妙法寺の由来記とかさもり大明神由来記を発表している。妙法寺由来記はさておき、かさもり大明神由来記のあらましをつづると、宝暦年中のはじめの頃、当時の十一世日豊上人は、十一年間にわたって腹痛に悩まされたという。

 ある夜、老翁が一人枕もとに立って“われは東部の某氏の館のほとりに長年住んで諸人の病苦をたすけている者であるが、汝(なんじ)もしも我をこの地に勧請するならば、病気をわずらっている者たちを、手のひらを返すように助けたいと思う。我が名はかさもりであるが、はやく我を招請せよ”と言いおいて、老翁の姿は消えたと言う。

 夢からさめた日豊上人は、かねて江戸で伝え聞いたかさもり大明神の御託宣と信じて、法華経を慕って広島に縁を結ばんというおのぞみなるべしと、翌朝、即時に勧請の手続きをしたところ、上人の長年の腹痛も平癒したため、かさもり大明神を勧請して新たに小社を建立した。

 あまつさえ、宝暦十一(1761)年四月、正一位をもらって神慮ますます不可思議なりと書かれてある。

 これが、かさもり大明神の由来記のあらましであるが、この鎮守かさもり社は宝暦八(1758)年、十一世日豊の建立で、四年後の宝暦十二年四月正一位の位を賜ったもので、それが明治三十五年、原爆以前の土地に再建されたと言う。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年7月5日中国新聞セレクト掲載)

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