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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十一)材木町(その2)かさもり大明神と正道稲荷大明神㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 重ねてかさもりさんの話になるが、この大明神と中島本町にあった「三田屋」とは、深い因縁があった。そのことは「腐っても鯛の中島本町」でその片鱗(へんりん)を書いたが、この機会にそのあらましをつづっておこう。

 三田屋の初代は天明三(1783)年に亡くなったが、その初代にお雪という娘があって、初代存命中に太七という養子を迎えて二代目を継がせたという。後に藩のお蔵番の用人が同家に出入りしたために、太七はお雪を怨(うら)んで、かさもりさんの隣にあった邪神の祠に願をかけて悶死(もんし)したと言われるが、三代目も不遇であったという。

 そして四代目にいたって、法華経の功徳によって二代目太七の霊も厄を解かれたといういわれがあって、その後日物語には明治四十年の話がある。すなわち、当主九代目の祖母が明治四十年に病気にかかったために、昔風の占いをしたところ、祖母が守護神を粗末にしているという話があったという。

 そこで八代目はかさもりさんから三田屋の守護神を持ち帰ったというが、当主の祖母のその後については聞いていない。ところで、その時先代は明治四十年の守護神について、身延山から正道稲荷大明神という職格をもらったとのことである。

 余談であるが、当主の三田屋さんは、かさもりさんから持ち帰った守護神を見ると、その神体は鼓の胴に七匹の蛇がからんでいて、あちこちがコワれていたので、これを修理して左官町の本覚寺にあずけたが、原爆で焼失したという。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年7月12日中国新聞セレクト掲載)

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